を張るにぎやか振りですね。(看样子,大家都参加了这次活动,它的热闹场面
与底特律汽车展不相上下〇 )
❺ つけ麺というカテゴリの中では、池袋の七福神とためを張るうまさでした。
(在辣酱凉面这ー领域,它的美味程度能与池袋的七福神媲美。)
匕政かくして 就这样,如此 ]
ある程度の長さを持った文章の後で、それまでの結論、結果を述べる文のは
じめに来る。「このようにして」「こうして」の意味である。「かくて」とも言う。
普通は歴史を説明する文章などに、かたい書き言葉として使われる。
❶ 当然、テスト環境で画面キャプチャなどを取れば、それを執筆環境にコピー
する必要も生じる。かくして、ネットワークの整備は「業務上必要な作業」
となったのである。(当然,如果要在测试环境里捕捉画面的话,就需要把它复
制到写作环境中。因此,充实和完善网络成了 “业务上必要的工作。”)
❷ かくして1本の苗から多分4個の鹿ヶ谷かぼちゃが収穫できた。味は抜群で
皮の部分も煮ると柔らかく美味しく食べられた。(就这样,ー株鹿谷南瓜苗
收获了4个南瓜。这种南瓜美味出众,煮熟后连皮的部分也酥软可口。)
❸ かくしてイラクは最新兵器の実験場、旧型爆弾の在庫一掃の場と化した。(这
样,伊拉克就成了新式武器的试验场和旧型号炮弹的清仓之地 。)
❹ ブームの収束と共に芳賀はふたたび工場に戻れることとなった。かくして
1983年、芳賀はいよいよ念願のロボット開発に乗り出した。(随着热潮的结
束,芳贺得以再次回到エ厂。这样,1983年,芳贺终于开始了他盼望已久的
机器人的开发。)
❺ かくして、希望から1年もかかって、やっと転職を完了することができまし
た。(这样,从提出申请算起,花了长达一年时间才把工作调动好 。)
匕拿 〜てはならじ (第一人称)不…。(第三人称)也许不…吧,可
し.. . 能不…吧〇 __ …一
文中の「馬鹿にされてはならじ」は「ばかにされてはなるまい」の意味。「じ」
は文語の助動詞で、活用語の未然形に付き、推量・意志の打消しを表す。現代
語の「まい」と同義。主語が一人称の場合には、多く打消しの意志の意味「(わ
たしは)〜ないつもりだ」になる。主語が三人称の場合には、打消しの推量の意
味「(彼は)〜ないだろう」になる。
❶ 国益の基本たる国語の原設計を見誤ってはならじ。(国语是国家利益的根本,
它的基本设计不得有误。)
❷ この天才の書いたものは、まさにリズム感に溢れている。訳文もそうでなく
てはならじと、あれこれ苦労した。(这个天才笔下的作品确实充满了节奏感。
第5課みやこ人と都会人89
我想译文也不得有损这一点,为此费了不少心思。)
❸ 長髪の彼は後ろを振り返るでもなく、さっさと廊下の奥へと足を運んでい
<〇逸(はぐ)れてはならじと、彼らは急いでその後を追った。(留着长发的他
头也不回,匆匆朝走廊深处走去。也许他们怕错失良机吧,ー个个急忙追了上
去。)
❹ いよいよ今日から次女の受験が幕を開けました。寝坊してはならじ、夜半か
ら1時間おきくらいに目を覚ましました。(从今夭开始,二女儿就要参加她的
升学考试了。我生怕自己睡过头,从半夜开始,每隔ー小时就会醒来一次。)
渉 〜まくる(接尾) ー个劲地,拼命地。 j
動詞の連用形について、非常な勢いで、存分にある動作をする意味を表す。
❶ めちゃくちゃに彼は馬の尻を打ちまくった。(他狠狠地抽打着马背。)
❷ 草八は、柳好を尻目にかけて勝手な落語をしゃべりまくった。(草ハ丝毫不在
意柳好,ー个劲地说着自己胡编乱造的单口相声 。)
❸ 人間がバイソンやシ力の類を殺しま•結果、餌のなくなったオオカミが
家畜を襲うようになった。(人类没有节制地捕杀野牛和鹿类动物,其结果,狼
因为失去了猎物,而开始袭击家畜。)
❹ 音楽を聴きまくっている。(如痴如醉地听音乐。)
練習
ー、次の言葉を覚えなさい。
アンティーク 横溢 罹患 しにせ ハタと
帝 セレブ <お披露目
アミューズメント 滾る 開帳 汚れ役
フリーク
リピーター 貪欲
二、次の日本語を中国語に訳しなさい。
7清. 水寺も南禅寺の湯豆腐も 、「普段とはちょっと違うデート」を演出するための
背景としか捉えることができなかった。やはり20代であったボーイフレンドが、
• 京都という背景を得ると何だか頼りなく見える。
2. 京都人気は、もちろん大人の独身女性だけが支えているものではありません。京
都の観光客は老若男女を問わないわけですが 、この空前の京都人気は日本の不
景気と関係しているのではないかと、私は思う。
3. しかし景気が低迷し、「日本なんてたいしたことないしー」という気分が世界に
横溢した時、日本人はふと「別にグローバル・スタンダードなんかについてい
90日语综合教程第七册
かないでも、和風ってところで勝負すればいいんじやないの? 」と思ったので
はないか。
4. パッと見ただけでは把握し切れない裏メニューのようなものが用意されていた
り、季節毎にお楽しみが入れ替わることによって、「また行きたい」というリ
ピート心は刺激されるのです。
5. 日本中の県庁所在地が「小東京」と化している今、京都だけはあくまで京都な
のであり、それどころか日本中に「小京都」と名乗る土地を従えています。東
京の人が京都に魅力を感じるのは、そこがあくまで都市でありつつも小東京で
はないから、なのです。
本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
1. 「『京都に興味が無い』という人はいても、『京都が嫌い』という人は日本には
いないのではないか」とあるが、その理由を説明しなさい。
2. 「やはり20代であったボーイフレンドが、京都という背景を得ると何だか頼り
なく見える」のはなぜか、説明しなさい。
3. 「もしやこの辺にあるのではないか……?」とあるが、「この辺」とは何を指す
か。
4. 「『世界でトップをとってやる』的な空気が濃厚に」の「空気」とは何か。
5. 「別にグローバル・スタンダードなんかについていかないでも、和風ってとこ
ろで勝負すればいいんじやないの?」とあるが、「ついていかない」の主語は
何か。また、「和風ってところ」とは何を指すか。
6. 「非常に熱心に和の道を突つ走ります」の例を挙げて見なさい。
/「京都には見事にその三拍子が揃っています。」の「三拍子」とは何か、具体的
な例を挙げて説明しなさい。
8. 「お楽しみの重層性」とは何か。
9. 「どんどん深みにはまっていく」とはどういう意味か、説明しなさい。
10. 「本当に大切なものはひっそりと秘蔵されていたりする」とあるが、ここの「大
切なもの」とは何か。
11. 「裏を裏のままで放っておいてくれない」とはどういう意味か、説明しなさい。
12. 「体育会系の都市である江戸」とはどういう意味か、説明しなさい。
13. 「独特の寛容さ」を説明できる例を挙げなさい。
14. 「『本当だったら京都が首都』という意識が、そこにあるのだ」とあるが、ここ
の「そこ」とは何を指すか。
15. 「確かにそれもごもっともですが」とあるが、ここの「それ」とは何を指すか。
16. 「日本はもっと違う国になっていた」とあるが、ここの「違う国」とはどうい
うことを意味するか、説明しなさい。
第5課みやこ人と都会人 91
四、次の文章を読んで、後の質問に答えなさい。
① 京都を主にした連作を描いた頃のことである。円山公園の夜桜として知られて
いる。あの、(1)しだれ桜の満開の姿と、春の宵の満月が呼応する情景を見たい
と思った。
② 4月10日頃だったか、その夜が十五夜であることを確かめて京都へ向かった。
昼間、円山公園へ行ってみると、幸いに桜は満開であった。春の日ざしが今宵
の月夜を約束するかのように明るかった。夕方までの時間を寂光院(じやっこう
いん)や三千院を訪ねて過ごし、頃あいを見て京都の町へ帰って来た。
③ 下鴨(しもがも)あたりだった®か.(A )、車の窓からのぞくと、東の空に、
(B )、円い大きな月が浮かんでいるではない喧、私は驚いた灌円山の桜を
前にして東山から顔を出したばかりの月が見たかったのであって、空高く月が
昇ったのでは意味がなくなってしまう。大原で時間をとり過ぎたことが悔やま
れた。
④ 円山公園へ急いでたどり着くと、私は、(c )一息ついた。ここでは山が間近
であるため、幸いに月はまだ姿を見せていなかった。紺青に暮れた東山を背景
に、この1株のしだれ桜は、淡紅色の華麗な粧(よそお)いを枝いっぱいに着け
て、京の春を一身に集め尽くしたかに見える。しかも、地上には1片の落花も
なかった。
⑤ 山の頂が明るみ、月が(D )のぞき出て、紫がかった宵空を静かに昇り始め
た。花はいま月を見上げる。月も花を見る。この瞬間、ぼんぼりの灯も、人々
の雑踏も跡かたもなく消え去って、ただ、月と花だけの清麗な天地となった。
⑥ これを巡り合わせというものであろうか。成花の盛りは短く、月の盛りと出合う
のは、なかなか難しいことである。また、月の盛りは、この場合ただ一夜であ
る。もし、曇りか雨になれば見ることができない。その上、私がその場に居合
わせなければならない。
⑦ これは一つの例に過ぎないが、どんな場合でも、風景との巡り合いは、ただ一
度のことと思わねばならぬ。©また、それを見る私たち自身も、日々移り変わっ
ていく。生成と衰滅の輪を描いて変転してゆく宿命において、自然も私たちも
同じ根につながっている。
⑧ 花が永遠に咲き、私たちも永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに
何の感動も起こらないであろう。©花は散ることによって生命の輝きを示すもの
である。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいっくしみ、地上での
短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違い
ない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍の1本の草でも同じことではな
いだろうか。
⑨ 風景によって(2)心の眼が開けた体験を、私は戦争の最中に得た。自己の生命の
火が、間もなく確実に消えるであろうと自覚せざるをえない状況の中で、初め
て自然の風景が、充実した命あるものとして眼に映った。強い感動を受けた。
92日语综合教程第七册
それまでの私だったら、見向きもしない平凡な風景ではあったが——
⑩ また、戦争直後、すべてが貧しい時代に、私自身も、どん底にいたのだか、冬
枯れの寂寞(せきばく)とした山の上で、自然と自己とのつながり、緊密な充足
感に目覚めた。切実で純粋な祈りが心にあった。
⑪ 風景画家として私が出発したのは.、このような地点からであった。その後の
「道」にしても、ただ、画面の中央を1本の道が通り、両側にくさむらがあるだ
けの、全く単純な構図で、どこにでもある風景である。しかし、そのために中
にこめた私の思い、この作品の象徴する世界が、かえって多くの人の心に通う
ものらしい。誰もが自分が歩いた道としての感慨をもって見てくれるのである。
⑫ 国立公園や名勝と言われる風景は、それぞれすぐれた景観と意義をもつもので
あるが、人はもっとさりげない風景の中に、親しく深く心を通わせ合える場所
が見いだされるはずである。
(A )〜(D )の中に入れることばとして、 最も適切なことばを、次
のア〜クの中から選んで、 〇をつけなさい。
アほっと イ めっきり ウ すっかり
工ふと 才 ぽっかりと カ たちまち
キわずかに ク しばらく
下線部岔と⑰の 「か」には、 筆者のどのような気持ちが表されているか。それ
ぞれについて、 次のア〜カの中から選んで、〇をつけなさい。
ァ願望 ィ詠嘆 ウ命令
エ疑問 才意志 カ誘い
①の段落から③の段落までの文中で、何が、どんなふうに、どんなだ、の構
成でつづられている文を抜き出して書きなさい。
答え:
dD 下線部(1)rしだれ桜の満開の姿と、春の宵の満月が呼応する情景」とある
が、その情景が表されている段落を探し、その番号を書きなさい。
答え:
次に示した文を、本文中ののうちのどこかに入れるとすれば、
どこが最もよいか、その記号を書きなさい。
自然は生きていて、常に変化していくからである。
答え:
dD 下線部⑵「心の眼が開けた」とあるが、このことばの意味に最も近いことば
第5課みやこ人と都会人 93
を、次のア〜才の中から一つ選んで、〇をつけなさい。
ア心が動いた
イ眼に映った
ウ深く目覚めた
工心にひびいた
ォ心に誓った
曲 筆者は、自然と人間との関係をどのように考えているのか、それを表してい
るー文の初めと終わりの5文字を書きなさい。(句読点は字数に入れない)
最初の5文字:
終りの5文字:
g読み物
雄弁な寡黙
•宮沢和史
アテネオリンピックではここ何回かの大会に比べて日本人選手の活躍が
光った(この原稿を書いている今現在まだ大会が終っていないので何とも言
えないが、過去最多の金メダル数に迫る勢いである)。
毎晩仕事から帰ると僕はテレビの前に座り、1日ごとに現れるヒーロー
やヒロイン達に拍手を送り、そのひたむきなプレイに涙した。スポーツは
いい。勝ち負けがはっきりしていて。勝負の世界なのだから当然とはいえ、
ほんの一握りの勝者がそれ以外の大多数の敗者を生み出しているわけだか
ら、考えようによってはなんともむごいイベントだなあと思うこともある。
だからこそなのだろうが 、普段少々のことでは泣くことはないのに、この
オリンピックでは勝者や敗者の試合後のインタビューを聞く度に 、毎晩の
ように目頭を熱くしていた。そんな自分に驚いてしまうくらい 、アテネの
中継に僕は見入った。
選手たち一大一大の、すべてをさらけ出して戦っている人間らしさを見
て、自分の心が浄化されていくのがわかった。人は偉人の言葉や神様の啓
示なんかよりもはるかに、目の前にいる自分と同じ人間のひたむきさに心
を打たれるものだ。「よし、自分もこのだらしなさに見切りをつけひたむき
94 日语综合教程第七册
に生きるぞ」と、僕も涙をふいてソファーから勢いよく立ち上がったのだ
が、確か4年前にも同じことを誓った気がして、やや勢いが失せた。まった
<もってだらしない。
自分のことはともかく、今回の、アテネオリンピックをテレビで見てい
て「何かスポーツを始めたくなった」、そう思った方も多いのではないだろ
うか?特に子供たちは、それほど身近ではなかった競技、たとえば柔道や
レスリングなどに今まで以上に関心を持ったと思う。アテネでの女性陣の
活躍に勇気づけられた女性たちも、スポーツに限らず今後ますます力を伸
ばすだろう。最近失いかけていた自信を僕ら日本人が取り戻すいい機会で
あるかもしれない。
自信といえば、近頃の若い選手のインタビューやマスコミへの対応を見
ていると、明らかに昔と変わったなと感じる。以前だったら、心の中では
闘志が燃えたぎっていたとしても、公の前ではグッとそれを抑えて冷静に、
言い方をかえれば建前的に答える選手が多かった 。でもアテネではナチュ
ラルに、普段と同じ様なトーンで話をする選手をよく目にした 。彼らは気
負うことなく本音の自分をさらけ出し、本番で持てる力を最大限生かし、普
段同様の、もしくはそれ以上の結果をもたらしていた。
これまでよく 「日本の選手は実力はあるのになかなか世界の大舞台でそ
の力を発揮できない」と言われてきたが、今回そういう印象は全く受けな
かった。本番に強い日本。何度もそれを目撃した大会だった。
先日あるテレビ局で、大阪と東京の人々の違いを様々な実験によって検
証しようという番組を放送しているのを偶然見たのだが、たいへん興味深
いものだった。一番ケッサクだったのは、同じような大通りとたたずまい
の商店街にテーブルを設置し、その上にポツンと置いたダンボール箱に大
量のポケットティッシュを入れ、「御自由にお取り下さい」という張り紙を
して、人々の反応を観察してみたシーンだ。1時間たってもほとんどティッ
シュが減らない東京に対し、大阪ではテレビスタッフが準備している段階
から人々が集まり、またたく間に全部なくなってしまったのだ。他にもい
くつかの実験があったのだが、最終的にその番組が出した結論は、他大の
目を気にし、建前を中心に行動する東京大と比べ、大阪の大は本音を大切
にするというものだ。「信号は赤だけど、車はいないし、それより何より、
自分は急いでいるんだから渡ってもいいだろう」というような感覚が大阪
人なのだという。僕は東京の「公の場」を意識する感覚も好きだが、どん
な場でも本音でものを言う関西流もスパッとしていて気持ちいい 。もしか
したら日本全体に関西化の波が押し寄せているのかも……。そう言えばオ
リンピックのインタビューでもイントネーションから明らかに関西系の出
身の人だなとわかる人たちの発言がとりわけよく耳に飛び込んできた。関
第5課みやこ人と都会人 95
西パワーおそるべし。
僕はというと子供の頃から大勢の人々の前で活発に発言するタイプでは
ない。どちらかというと、男なんだから人前で余計な事をベラベラしやべ
らない方がいい、という美意識を持ってきた。実際、自分が好きになる人
もそういうタイプだと思う。音楽家ではボブ・マーレーやスティング・ア
スリートならイチロー選手、役者なら松田優作さんなど、寡黙な印象を受
ける人が多い。ただしそれは一般的なイメージであって、プライベートの
部分についてははっきりわからない。ここからは僕の想像だが、彼らのよ
うに魅力的な才能を持つ人達は、プライベートではまわりの人をひきつけ
てやまない話がえんえんとできるのではないかと思う 。ボキャブラリーを
人一倍持ち合わせた寡黙さ。そんな人物に僕はひかれる。
『存在の耐えられない軽さ』という映画を観て以来、ジュリエット・ビノ
シュというフランスの役者さんが好きで 、彼女が出演した映画をいくつか
観てきたが、1986年の作品『MAUVAIS SANG』(『汚れた血』)の中のジュリ
エットのセリフを聞いてドキッとしたことを思い出した。
「無口な人は他人を不安にさせる。バカなのか利口なのか判断できないか
ら」
どうやら寡黙なだけではいけないようだ。
「言の葉摘み」(『小説新潮』2004年10月号)による
筆者紹介
宮沢和史(みやざわかずふみ)
1966年生まれ。山梨県出身。THE BOOMのボーカリスト。作詞・作曲のほとんどを手がける。
代表曲「島唄」は、アルゼンチンをはじめ世界各国でカバーされ、国内のみならず海外でも人気が
高い。2002年からヨーロッパ、ロシア、南米を中心にツアーを行っている。作家としても多くの
アーティストに曲を提供。2006年は、ここ数年海外ツアーを共にしてきたメンバーで「GANGA
ZUMBAJを結成し活動。また、ソロ活動では弾き語りコンサートを各地で開催している。その他、
雑誌連載などの執筆活動も積極的に取り組み、近著には『言の葉摘み(ことのはつみ)』(新潮社、
2006年8月)がある。
い釈
〇アテネオリンピック 雅典奥运会
第28回オリンピック競技大会は2004年8月、ギリシアのアテネで行われた。
❷ ボブ・マーレー(Bob Marley) 鲍勃・马利
1945年、ジャマイカに生まれる。「レゲエ」という新しい音楽ジャンルを確立。1981年死去。2005
96日语综合教程第七册
年、「ノー・ウマン、ノー・クライ」がグラミーの殿堂入りを果たした。
❸ スティング・アスリート(sting athlete) 强健的运动员
堅実なスポーツ選手の意味。
〇 イチロー選手 铃木一朗(棒球)运动员
本名:鈴木一•朗。愛知県出身。1973年10月22日生まれ。愛知工業大学名電高校からオリックス
に入団。7年連続首位打者となり、自身で持つ日本記録を更新した。3度のリーグMVP受賞、7
年連続ベストナインに選出され、堅実な強肩右翼手として7年連続ゴールデン・グラブ賞を受賞
する。2000年11月フリーエージェントとしてシアトルマリナーズに移籍。2001年アメリカンリー
グの首位打者、盗塁王、新人王や日本人初のMVPを獲得した。
❺「存在の耐えられない軽さ」 布拉格之恋(又名:生命中不能承受之轻)
映画名。冷戦下の中央ヨーロッパの悲劇的政治状況の下で、存在の耐えられない軽さを、かって
ない美しさで描く、クンデラの哲学的恋愛小説をもとにして撮影された映画。
❻ ジュリエット・ビノシュ(Juliette Binoche) 朱丽叶・比诺
1964年、パリに生まれる。フランス映画界を代表する人気演技派女優。「イングリッシュ・ペイ
シェントJ(1996年)で、アカデミー助演女優賞を受けた。
〇 ,TMAUVAIS SANG』(『汚れた血』) 坏血
映画名。舞台は近未来のパリ。愛のないセックスをするとたちまち死に到るレトロウィルスに感
染する不治の病rSTBOjに人々は恐れおののいていた。父親を地下鉄での不慮の死で失った金
庫破りの青年アレックスは、孤児となって新しい人生に逃れる焦燥に搔き立てられていた。アレッ
クスの父親の死がきっかけでその友人マルクは「アメリカ女」の率いるシンジケートから膨大な
借金の返済を脅迫され行き詰まっていた。たった一社の製薬会社だけが開発に成功したFSTBOJ
の免疫薬の強奪を計画したマルクは、金庫破りとしての腕を買って、アレックスを仲間に誘う。人
生を塗り替えるべく、恋人を捨て、マルクの元へと向かったアレックスは、そこでマルクの愛人
アンナを激しく愛してしまうようになる。
第5課みやこ人と都会人 97
!本文 ....ー 6:董 課
然と人間
ー… 一.一…一...... .
•内山節
季節
桜の花が咲くと花見にくりだしたくなるのは 、どうやら日本人独特の習慣
であるらしい。もちろんソメイヨシノは日本の木であるけれど、どこの国に
行っても春にはその国を代表する樹々が美しい花をつける 。といっても、私
が行ったことのある国では、花の下で車座になって酒を飲んでいる人々など
みたことはない。もっとも古代には日本でも、桜より梅のほうが宴の対象に
なっていたようだが、梅の季節ではまだ寒くて 、昨今のようにひと騒ぎする
気にはならなかったにちがいない。
日本人が花見が好きなのは、春になると魂が生き還ると考えていた、日本
の伝統的な季節観と関係しているのではないかと私は思っている。この考え
方では、人間の生命は山の樹々と同じようなサイクルをもっているとみなさ
れていた。春になると人間の生命も生き還る。そして、生命が活発化する夏
を迎える。秋はその命の衰退期である。冬は閉じた生命を細く維持していく
時期である。
だから古代律令制の下では、罪人の処刑も晩秋におこなわれている。生命
が閉じようとする季節に処刑することによって処刑された魂が生まれ還るの
に支障のないようにしているのである 。
子供のころ私は人間だけが、一年じゅう同じように働き暮らしていなけれ
ばならないことに少なからぬ不満をもっていた。山の樹々は冬には活動をお
おかた休止させ、山の動物は冬眠に入るではないか。それなのに人間だけが
一年じゅうほとんど変わりないリズムで働いているのである。なんとなく損
な生き物に生まれたような気がしてならなかった 。
だから山里を歩くようになったとき、私には解放感があった。山里にはま
98 日语综合教程第七册
た季節とともに暮らす人々がいた。春になって木や草や鳥や虫たちがいっせ
いに活動しはじめるさまは、まるで土や大気や水の中から命が湧きだしてく
るかのようだ。そのころ山里の人々の活動も始まっていて、自然が生命活動
を閉じる晩秋に山里は静寂を迎える 。
もしかすると、こんな暮らし方を、文明の発達度が低い証というのかもし
れない。文明の発達は、自然に制約されない人間の営みをつくりだしていく
過程でもあったのだから。一年じゅう同じリズムで稼働する都市や工場の存
在は、発達した文明の象徴でもある。そして実際には、山里でも自然に制約
されない労働や暮らしの部分が拡大してきている 。
別にそれを非難しようというのではない。人間が季節を克服していくのは、
人間の自由だ。しかし私たちの背後には、季節とともにしか存在しえぬ自然
の世界がある。そして人間は自然の恩恵を受けながら暮らしている。とすれ
ば人間はどれほど文明を発達させようとも、かたわらで季節と共存し、季節
としての時間の流れを引き受けなければならないのではないのか。
春になると息を吹き返し 、秋にはその活動を縮小していく時間の流れ 、も
しそれを人間たちが引き受けなくなったら、おそらく自然は荒廃していくだ
ろう。人間たちが自然を一年じゅう同じように扱ったら、自然は壊されるば
かりである。
文明の発達度が低いほど、季節としてあらわれる一年の時間の流れと人間
の暮らしが調和していたというのは、人間の歴史の皮肉でもある。いや、そ
れ以上に人間たちはいまでは、季節という時間の流れを克服した自然をつく
りだそうとしているのかもしれない。
一年じゅう青々とした芝の広がるゴルフ場、人工雪を降らせたスキー場、
農業でも施設園芸が一般化し 、もしかすると一年じゅう成長しつづける木も
そのうち生みだされるかもしれない。自然の制約から抜けだそうとしてきた
人間たちは、いま季節のない自然をつくりだしはじめたのかもしれないとい
うような気さえするのである。
近代文明は四季があること自体を、めんどうなこととみなしてしまった。
だから一年じゅう室温の変わらない工場をつくり、一年じゅう変わらない生
活のリズムをつくりあげた。そしてそのことによって、私たちはしだいに自
然を忘れていった。季節とつきあい、やりすごしながら、季節に助けられて
暮らす生活を忘れることは、自然を忘れることである。
桜の花が咲くと私も花見にでかける。ソメイヨシノの華やかさに驚き、霞
のように白く浮き上がるヤマザクラに足を止める。その桜の下で人々が花見
の宴を盛り上げているのを見るのは楽しい。
この時ばかりは、まるで季節を克服しようとしてきた文明の歴史に抵抗す
るかのように、私たちは人間もまた季節とともに生きていることを実感する 。
第6課自然と人間 99
そして昔の人々と同じように 、生命がわき上がってくる春を楽しむ 。自然と
人間の関係をつなぐもののひとつに、四季という時間の流れがあることを、
そのとき私たちはあらためて再発見しているのである。
『山里紀行』による
ヤドカリ
10年ぐらい前の、僕にとってはひどく
暇な夏の夜、道を歩いていく1匹のヤド
カリを見つけたことがあった。道路の隅
をセカセカと歩いては立ち止まり、ため
息をつくようなそぶりを見せてはまた歩
みを速めた。
たぶんデパートか夜店で売られたヤド
ヤドカリ カリが、飼われていた狭い水槽から逃げ
出したのであろう。大通りを横切り路地
を曲がり、目的地に向かって一心に急いでいるようであった。どこに行こう
としているのだろう。後をついていった。
午前零時に東京の本郷を歩いていたヤドカリは、2時間後には湯島にさし
かかっていた。その方角で歩いていけばまもなく上野、その先が浅草、そし
て東京湾に入る。そうか、ヤドカリは歩いて海に帰るつもりなのか。アスファ
ルトの上でため息をつきながら、しかしその歩みは速かった。迎え入れてく
れる海を目ざして、迷うことなく道を急いでいた。それはヤドカリの自由へ
の逃走であった。
あの汚れた東京湾より、もう少しマシな海に連れていってやりたいと僕は
思い始めていた。何度か躊躇した後で、そのヤドカリを拾い上げた。家に連
れて帰った。自由への逃走を挫折させられたヤドカリは、ひどく落胆してし
まったようであった。餌も食べずに箱の隅でしょんぼりしていた。
翌朝、朝一番の特急に僕はそのヤドカリを連れて乗った。汽車が海岸線に
出てきて潮風が伝わってくると、まだ気落ちしていたヤドカリは、にわかに
騒がしくなってきた。ありったけの力で僕に抵抗をした。千葉の館山で下車
して洲崎行きのバスに乗る。以前によく行ったことのあった房総半島の突先
の海岸に向かった。
海岸に立つと、夏の太平洋の香りの強い浜風が僕の衣服をバタつかせた。
かってよくサザ工取りに訪れた岩場まで来ると、ヤドカリは渾身の力をふり
100日语综合教程第七册
しぼって僕の手を押しひろげた。そうして岩の上へと飛び降りていった。体 ・
じゆうに波を浴びて、岩陰に隠れ去っていった。
僕は砂浜の落花生畑を横切り松林を歩いて、国道にと戻ってきた。バスに
乗り、汽車に乗って東京に帰る。もしかすると重い殼を背負って海へと急い
でいたヤドカリの健康な走りに、生きることへの迷うことなき逃走に、僕は
少しだけ羨望の思いをもっていたのかもしれなかった。
迎え入れてくれる海を目ざして走っていく、それは僕たちがすでに失って
しまった逞しさであるように思えた。僕たちはいつごろから、生きようとす
る衝動をこれほどまでに失ってしまったのであろうか。まるで生きることが
憧れではなくなってしまったようだ。
現代の僕たちには、生きるという問題が、精神のなかでブラックボックス
のように、あるいは空白の円のように広がっているような気がする。ドーナ
ツの輪の上を回るように生活をしているうちに、しだいに真ん中の空白は大
きくなってきて、今ではドーナツのような輪も、人がやっと歩けるだけの幅
に狭まってしまったような気がする 。
そうして、どんなに追いつめられた精神をもっていたとしても、それでも
人は生きていけるという単純な事実に僕は落胆するのである。それは人間の
もつ本質的な悲しさであるような気がする。戦争のなかで敵を殺したときに
喜びを感じるような悲しさを、人はどこかにもっているのである。
人間が肉体的に生きている、それは自分の生命のバランスがまだ保たれて
いるということである。
しかしそれもまた人間の悲しさであった。僕の体に与えられたさまざまな
出来事が、体を狂わしていく。しかし人間の体は狂っているなりに、それで
も生きようとする自然の力が働いて、体のなかに錘をつくり骨を曲げて、生
きるためのバランスをとりつづけていくのである。屈折を重ねながら、どん
なにみじめな状態でも人の休は生きていこうとする 。
きっと人間の精神も同じことをしているのだろう。どこまで誇りを失って
も、どんなにみじめな精神をもっていても、屈折したバランスを保ちながら
人は生きていけるのである。
海に向かってアスファルトの道を歩いていったヤドカリの姿を、僕は時々
思い出す。
彼は生きることへの憧れを、体いっぱいに表現していた。そんなありふれ
たことに、なぜ僕たちは感動しなければならないのだろうか 。
『自然と労働——哲学の旅から』による
注:本文のタイトル「自然と人間」は編集者がつけたもの。
第6課自然と人間101
筆者紹介
内山 節(うちやまたかし)
1950年東京生まれ。哲学者。労働論から出発し、人間の存在の自由という問題を一貫して追及す
る。70年代からは、群馬県上野村にしばしば滞在し、自らの体験を踏まえ、自然と人間の交流を
媒介するものとしての労働の変容の問題に思索を深めてきた。主な著書に『自然と労働』『哲学の
冒険』『自然と人間の哲学』『自由論』などがある。
I注釈
〇 ソメイヨシノ 染井吉野樱花树
桜の一種。江戸染井村(現在の東京都豊島区駒込(こまごめ))の植木屋から売り出されたので、「ソ
メイヨシノ」と名づけられた。日本の各地で最もよく見られ、花は一重で大きく、満開後は急速
に衰える。「ヨシノザクラ」ともいう。
❷ 古代律令制(こだいりつりょうせい) 古代律令制(奈良、平安时代的法令)
奈良、平安時代の政治制度。律(刑法)と令(行政全般の法律)に基づく政治制度。
❸ヤマザクラ 山樱
バラ科の高木。関東以南の山地に自生するサクラ。葉は卵形で若葉は赤褐色。四月ごろ、若葉と
ともに白い花を開き、赤紫色の小核果を結ぶ。
❹ヤドカリ 寄居蟹
エビ目(十脚類)ヤドカリ亜目の甲穀類のうち巻貝の空殻に入る種類の総称。
❺本郷(ほんごう)
東京都文京区にある地名。山手台地の東端の本郷台に位置し、東京大学の敷地が地区面積の約3
分の1を占める。
❻湯島(ゆしま)
東京都文京区にある地名。本郷台地南東の傾斜地に位置し、江戸時代初期から町屋化が始まり、孔
子を祀った聖堂や湯島天神の門前町として発展し、歓楽街としてにぎわった。現在は、東京医科
歯科大学などが立地する文教、商業、住宅地区となっている。
〇館山(たてやま)
千葉県南西部の館山湾に臨む都市。市名は里見氏築城の館山城に由来する。
❽洲崎(すのさき)
千葉県にある地名。房総半島の先端にある岬。
❾房総半島(ぼうそうはんとう)
関東地方の南東部、千葉県が全域を占める半島。太平洋と東京湾に挟まれ、北は利根川、西は江
戸川が境をなす。東西106キロ、南北130キロ、面積は5119キロメートル。
102日语综合教程第七册
!新しい言葉
くりだす(繰り出す) [他五] ①糸などを繰って順々に引き出す。/纺出,傀子、
线等)抽出。②次々に送り出す。/陆续送出;派出。
3(自動詞的に)大勢が揃って勢いよく出かけ
る。/(众多的人)ー齐出动,ー起出发。
ソメイヨシノ [名] サクラの一種。/(樱花的ー种)染井吉野樱花树。
車座(くるまざ) [名] 大勢が円形になって座ること。/围着坐,围成一
圈坐。
生き還る(いきかえる) [自五] よみがえる。活力を取り戻す。/复活,苏醒。
サイクノレ(cycle) [名] 周期。循環過程。/周期,循环过程。
みなす(見なす) [他五] ①見て、それと判定する。そうと決める。/看作,
认定为。②見て、仮にそうだと考える。仮定する。/
イ队设,(姑且)当作。③性質の異なる二つの事物を
法律上同一視する。/视为。
律令(りつりょう) [名] 律と令。/(法令)律令。
罪人(ざいにん) [名] 罪のある人。/罪人,罪犯。
処刑(しょけい) [名・他サ] 刑に処すること。特に死刑に処すること。/处刑,
处死刑。
山里(やまざと) [名] 山の中にある村里。/山村,山区里的村庄。
静寂(せいじやく) [名・形動] 静かで寂しいこと。物音もせず、しんとしている
こと。/寂静,沉寂,宁静。
生まれ還る(うまれか [自五] 死んでから新たな生命を得て再びこの世に生まれ
える) てくる。/重获新生;转升,转世。
支障(ししょう) [名] 差し支え。差しさわり。/障碍,妨碍,故障。
証(あかし) [名] 証明すること。疑いを晴らす証拠。/证明,(清白
的)证据。
稼動(かどう) [名•自他サ] ①生産に従事すること。/做エ,工作。②機械を
動かすこと。/开动,运转。
吹き返す(ふきかえす) [自他五] ①風が前と反対の方向に吹く。/(风)倒刮,风向
倒转。②呼吸を回復する。蘇生する。/苏醒,复
苏。
やりすごす(遣り過す) [他五] ①後ろから来たものを前へ行き過ぎさせる。/让
(后面来的人)过去。②限度を越えてする。やり過
ぎる。/过火,做过头,过度。
ヤマザクラ [名] 山に咲く桜。/山樱花,野樱花。
ヤドカリ [名] ヤドカリ科の節足動物。カニとエビの中間の仲間
第6課,自然と人間103
せかせか [副・自サ] で、巻貝の殻の中に住む。/寄居蟹,寄居虫。
そぶり(素振り) [名] 物言い、動作などが落ち着かず気ぜわしいさま。
せせこましいさま。/慌慌张张,匆匆忙忙。
水槽(すいそう) [名] 顔色や動作に表れた様子。気配。/举止,样子,表
路地(ろじ) [名] 情。
水を貯えておく容器。/水槽,水箱,贮水槽。
さしかかる [自五] ①人家の間の狭い通路。/胡同,小巷。②(日本
家屋の)門内、庭内にある細い通路。/甬道。
躊躇(ちゅうちょ) [名・自サ] ①そのすぐ前まで来る。その場に臨む。/来到,靠
近。②その時期になる。ちょうどその状況、場面
落胆(らくたん) [名・自サ] に望む。/临近,逼近。③上から覆いかぶさる。Z
笼罩,垂悬。
潮風(しおかぜ) [名] 決心がつかず、ぐずぐずすること。ためらい。/
踌躇,犹豫。
気落ち(きおち) [名・自サ]
失望してがっかりすること。力を落とすこと。Z
ありったけ [名・副] 消沉,气馁。
海の上を渡ってくる潮気の含んだ風。潮時に吹く
突先(とっさき) [名] 風。Z海风。
浜風(はまかぜ) [名] 張り合いが抜けてがっかりすること。/萎靡不振,
バタっく [自五] 沮丧。
ある限り全部。(「ありたけ」を強めた言い方。)/全
サザ工(栄螺) [名] 部,所有,一切。
岩場(いわば) [名] 突き出た先端。とがった端。/尖端,最前端。
浜に吹く風。潮風。/海风,海滨的风。
羨望(せんぼう) [名] ばたばたする。せわしく大きな音を立てる。/(衣
ブラックボックス [名] 月艮、旗帜等)发出啪嗒啪嗒的声响。
巻貝の一種。/海螺,蝶螺。
(black box) [名] 岩の多いところ。岩山で登山者が岩登りをする場
ドーナツ(doughnut) 所。/岩石多的地方。
うらやましく思うこと。うらやむこと。/羡慕。
狭まる(せばまる) [自五] 機能は分かっているが、構造が分からない装置。/
(只知其功能,不知其结构的)黑箱;黑匣子。
小麦粉に砂糖、バター、卵、ベーキング•パウダー
又はイーストなどを混ぜてこね、輪形、円形など
に作って油で揚げた洋菓子。/油炸面饼圈,面包
圈。
狭くなる。/(距离)接近,缩短;(宽度)变窄。
104日语综合教程第七册
狂わす(< るわす) [他五] ①(考えや物事の状態を)普通でなくする。正確さ
を失わせる〇/使・•・失常。②(予定していたことな
錘(おもり) [名] どを)はずれさせる。変更する。/使…错乱,打乱。
①物の重さを増すために付け加えるもの。/(压东
西用的)重物。②釣針や魚網を沈めるためにつけ
る鉛。/(钓鱼用的)铅坠,坠子。③(秤の)分銅。Z
秤花,硃码〇
学習の手引き
『季節』について
❶ 日本人の花見が好きな理由を知ること。
❷子供の頃の筆者の不満の理由を読み取ること。
❸ 山里を歩くようになったときの筆者の「解放感」の意味を理解すること。
〇春と晩秋の山里の、自然と人々の暮らし方の関係について考えること。
❸ 文明の発達と人間の暮らし方の関係に関する筆者の考え方を読み取ること 。
❻ 自然と人間の関係の立場から、筆者の「近代文明」への批判意識を理解すること。
『ヤドカリ』について
❶ 文体の特色、特に擬人法のもたらす効果を考えること。
❷ ヤドカリを偶然発見したときの筆者の心理、ヤドカリの逃走を手助けする時のヤド
カリに関する描写を読み取ること。
❸ 筆者がヤドカリの「自由への逃走」を通して言いたいことを考えてみよう。
〇筆者がヤドカリを房総の海に放す理由を考えてみよう 。
❺ ヤドカリを海に放して、帰り道に筆者の考えることについて注意して読むこと。
❺ ヤドカリと現代の人間とはどのように対比されているか、考えてみよう。
言葉と表現
ヒ〉気がしてならない(連語)总觉得…
慣用句「気がする」の活用形「気がして」に「ならない」の付いたもの。ま
た、自発動詞および感情を表す形容詞の連用形に接続助詞「て」の付いたもの
第6課自然と人間 105
を受けて、どうしてもそうなる状態を表す。「〜てたまらない」の意。
❶ 見た目コカコーラなんですけど、なんだかクスリを飲まされている気がU
ならないです。(看上去像可乐,可是喝起来总觉得像药水ー样。)
❷ どうも週明けの月曜日に雨の日が多い気がしてならない。(总觉得一周伊始的
星期一下雨的日子特别多。)
〇 最近妙に忙しい気がしてならなかったが、友人に相談してみたところ、やつ
ぱりちょっと尋常じゃない忙しさといえるらしい。(最近,总觉得自己忙得出
奇,跟朋友一谈,果然忙得可以说有点不正常了。)
❹ 人とすれ違うたびに、自分の顔を見られている気がしてならなかった。
ンー、顔を怪我するだけでこんなに注目されてしまうのね。(每逢与人擦肩而
过时,总觉得自己的脸被别人盯着看,嗯 …,就因为脸上挂了彩オ如此倍受注
目的吧。)
匕洪 動詞連体形+かのようだ 好像…似的,好像—样
動詞の連体形を受け、実際はそうでないのに、そうであるかのように振舞っ
たり、感じたりする様子を表す。事実と矛盾したり、仮想的な事柄をたとえに
挙げて言う場合が多い。
❶ 海の中でゆらゆらゆれる月は、まるで私の恋をそのままの形で映しだし
たかのようだ。(海面上随波荡漾的月亮的倒影,仿佛是我恋情的真实写
照。)
❷ 雨は何かを洗い流すかのように、昨日一晩降り続いた。(大雨好像要冲刷掉什
么似的,昨天整整下了一夜。)
e 雪は、彼を覆い隠すかのように、どんどん彼を白く染めてゆく。(大雪好像要
把他掩盖掉似的,不停地将他全身染白。)
❹ これが城崎かあ。僕にとっては山陰の神秘の温泉地であり、この不思議な卜
キメキは何か女の子の部屋に初めて訪れたかのような気分と言えないことも
ない。(这就是城崎吧。对我来说,它是山阴地区神秘的温泉地,这种不可思议
的兴奋心情,可以说如同初次造访女子的闺房一样。)
〇 ゴールデンウィークからこっち、そのまま初夏になだれ込んでしまったかの
ような、爽やかで明るい晴天の日和が続いていた。(从黄金周开始,这里就好
像直接进入了初夏,每天都是爽朗明媚的大晴天 。)
106日语综合教程第七册
動詞連体形+ことなき+体言 不…,没…
「ことなき」は「ことがない」の意味である。「なき」は否定を表す形容詞「な
し」の連体形である。前に来る動詞の示す事態がないという意味を表す。
❶ 橋本治先生の言うように「社会の寄生虫」がインテリなら、私a紛うことな
きインテリである。(若如桥本先生所言“社会的寄生虫”是知识分子的话,那
么,我就是不折不扣的知识分子。)
❷ たゆむことなき地道な行動力と忍耐力で徹底した力を発揮する"以毫不松
懈、脚踏实地的活动能力和忍耐力,充分发挥自己的作用 。)
❸ それには、飽きることなき規制緩和推進者たちの行政書士制度潰しの意思が
凝縮されていた。(坚持不懈地推行放宽限制的人试图废除行政代书士制度,他
们的设想都浓缩在这里。)
❹ 何ものにも屈伏することなきその精神をまのあたりにして、われわれは深い
感動を禁じ得ない。(亲眼目睹这种不向任何压力屈服的精神,我们不禁为之深
深的感动。)
恥 なり(に) 就一直…,…着;就那样… j
ある状態がそのまま持続している意味を表す。「〜したまま」に言い換えられ
る。動作動詞の場合は「〜たなり(に)」の形、状態動詞の場合は「〜ているな
り(に)」の形で用いられる。やや古めかしい言い方。
❶ 住民の反対に遭って、工事は中断されたな2解決のめどもついていない。(由
于遭到居民的反对,工程一直中断着,问题的解决遥遥无望。)
❷ お辞儀をしたな次何も言わずに部屋を出て行った。(他点头致意了一下,什
么话也没说就走出了房间。)
❸ 知ってれば知ってるなりに、知らなければ知らないなりに書くこと。(知之为
知之,不知为不知,一定要如实填写。)
❹ 帰りも例の事故の影響があったが、混んでるなりに楽に帰ることができ
た。(回来的时候,虽然受到那个事故的影响,但还是在拥挤中顺利地回到了
家。)
第6課自然と人間 107
練習
ー、次の言葉を覚えなさい。
しょんぼり 律令 静寂 証 そぶり 宴
渾身 錘 せかせか
ありったけ 突先
二、 次の日本語を中国語に訳しなさい。
1.春になって木や草や鳥や虫たちがいっせいに活動しはじめるさまは 、まるで土
や大気や水の中から命が湧きだしてくるかのようだ。そのころ山里の人々の活
動も始まっていて、自然が生命活動を閉じる晩秋に山里は静寂を迎える。
2文明の発達度が低いほど、季節としてあらわれる一年の時間の流れと人間の暮
らしが調和していたというのは、人間の歴史の皮肉でもある。いや、それ以上
に人間たちはいまでは、季節という時間の流れを克服した自然をつくりだそう
としているのかもしれない。
3.昔の人々と同じように 、生命がわき上がってくる春を楽しむ。自然と人間の関
係をつなぐもののひとつに、四季という時間の流れがあることを、そのとき私
たちはあらためて再発見しているのである。
4海岸に立つと、夏の太平洋の香りの強い浜風が僕の衣服をバタっかせた。かつ
てよくサザ工取りに訪れた岩場まで来ると、ヤドカリは渾身の力をふりしぼっ
て僕の手を押しひろげた。そうして岩の上へと飛び降りていった。体じゆうに
波を浴びて、岩陰に隠れ去っていった。
三、 本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
『季節』について
1•古代、罪人を晩秋に処刑する理由を言いなさい。
2筆者は何に不満を持っていたか。その理由を述べなさい。
3. 筆者の「解放感」とは、どこからの「解放感」なのか。具体的に述べなさい。
4. 「こんな暮らし方」とはどんな暮らし方なのか。具体的に述べなさい。
5. 「文明の発達度が低い証」を説明しなさい。
6. 「季節を克服する」とはどういうことなのか。説明しなさい。
7. 「季節を克服する」ことについて、筆者はどういう主張なのか。その理由を述
ベなさい。
8. 「人間の歴史の皮肉」とは、文章の中でどういうことを意味するか。
9. 「自然を忘れる」とは、具体的に言えば何を忘れるのか。
7Q 「この時とばかりは……」とは、どういう時なのか。
11.筆者は「春を楽しむ」ということをどのように実感しているか。
108日语综合教程第七册
12.「自然と人間の関係をつなぐものの一つに、」という表現から何が感じられる
カ、。
『ヤドカリ』について
1. 筆者が路上でヤドカリを発見した時の、ヤドカリについての描写に注意しなが
ら読むこと。
2. ヤドカリの「自由への逃走」とは、何を意味するか。
3. 「何度か疇躇した後で」とあるが、筆者は何を躊躇したのか。
4. 「潮風が伝わってくると•••••・にわかに騒がしくなってきた」とあるが、騒がし
くなった理由は何か。
5. 筆者がヤドカリの逃走に「羨望の思いを持っていた」理由は何か。
6. 「ブラックボックス」「空白の円」という比喩は何を意味するか。
7. 「ドーナツ」という比喩は何を意味するか。
8. 「しだいに真ん中の空白は……ような気がする」とあるが、筆者は何を言いた
いのか。
9. 「ぼくは落胆する」理由は何か。
io. 「人間の持つ本質的な悲しさ」とは、どういうことか。
四、次の文章を読んで、後の質問に答えなさい°(A〜Gは、各段落の初めを示す。)
A 山頂をのみ追う人間が、いつも山だけでは満足できなくなり、人間に、自然の
間に住む人間に、感興を見いだしはじめる時に园畦が好きになってくる。®絶
頂ばかりを喜び、©峻険な山歩きをのみ賛美する心持ちも、やがて歴史や人文に
好みを感ずる時節がくると、人間と人間とを結ぶ(a)動脈となっている峠に興
味を感ずるに至るのは当然のことであろう。
B 私などもこのごろは峠に深い興味を見いだすようになってきた。そして、峠を
歩いているうちにいつも感ずることは、峠を作るに至った人間の微妙な神経の
はたらきである。
C①峠には、山のこちら側から電光形に登って®峰の頂上に達し、それから向こ
う側を電光形に下るようなきわめて簡単なものもある。②だが、そうでなく、山
脈が複雑に入り組んでいる場合は、どういうふうにこうしためんどうな峰を越
すのだろうと思わせるものが多い。③そして、そういう場合の峠道は、いかにも
自然的で無理がなく、しかも①眺望を加味していながら少しの損をしないとこ
ろに、いつも峠の微妙さを感じさせる。④そういう時に、私はいつも、峠が峠と
して一般に認められる以前に歩いた人間の、ほとんど本能的といってよいほど
の不思議な働きを考える。
D つまり、そういう人たちは、ちょうど、アリが甘いものを本能的に見つけると
同じように、また、動物が不思議な本能をもって、相手を(b)見いだすように、
最も自然的にかつ合理的に、山の最も容易かつ近いところを(c )見いだしつつ、
第6課自然と人間109
人間を求めてたどりついたものが、峠となったのではなかろうかというふうに
考える。山を歩いている際、山を天才的によく歩く昔の案内者などの歩き方を
見る時、いつも、そういう感じが暗示される。
E まったく、そういう案内者が、山のよいところ、無理のないところを拾って、
しかも初めて来たところでも方向を誤らずに行く点は、ほとんど本能的といっ
てよいほどの微妙な神経をもつように思われ、彼らの足の裏には独得の触覚で
もあるのではないかという気がする。たとえば、大天井岳から槍岳につづく喜
作新道など、ほとんど喜作という男の本能的な神経からできたのではないかと
思われるほどに鋭敏な神経をもって作られている。
F もちろん、私は峠道の進化を考える。それが峠として一般に認められる以前に、
すでに⑧幾多の進化と変化とを経て、(d)そこまできたことを認める。しかし、
また、天才的な登山者のほとんど本能的といわれうるほどの直観的な働きをも
認める。そして、どこの山国にもこうした人間のあることを認めて、最初に峠
を歩いた人間の微妙な直観をほとんど神秘的なものとみる気持ちを (e)依然と
してもっている。ゆえに、複雑な山脈を越す際に、この峠は山のどの部分をど
のように越すのだろうという考えが、いつも頭に浮かんでくる。そして、それ
が巧妙に無理なく山を乗り越すのに驚嘆しない場合は少ない。
G したがって、峠道のおもしろさは、山の頂上をよじるように、険阻にあること
に存するのでなくして、いかにも深山的でありながら巧妙で自然的で無理がな
くて、しかも壮大な眺望が得られることに存する。
碰 次のの漢字に振り仮名をつけなさい。
智峠( ) ⑧絶頂( ) ©峻険( )
色)幾多( )
◎峰( ) ©眺望( )
皿 A段落の下線部(a)「動脈」に最も近い意味の語を、次のア〜エの中から
一つ選んで、〇をつけなさい。
ア線路 イ幹線 ウ歩道 工路地
碰 「峠」や「峠道」に対する筆者の感嘆の気持ちが、「峠」や「峠道」の説明を
通して最もよく表れている文を、C段落の①〜④の中から一つ選んで、その
番号を書きなさい。
()
OB D段落の下線部(b)「見いだす」と下線部(c)「見いだし」に対するそれぞ
れの主語を書きなさい。
(b) (c)
no日语综合教程第七册
靖陷 F段落の下線部(d)「そこ」は何を指すか、その内容を書きなさい。
「そこ」:
碰 F段落の下線部(e)「依然として」と述べた筆者の気持ちとして、最も適
当なものを、次のア〜エの中から一つ選んで、〇をつけなさい。
ア 峠道はそれができた初めのころは巧みに作られていたとしても、その後
さまざまに作りかえられたことからみればやはり
イ 現在の峠道は初めのころと変わってはいても、山を天才的によく歩く者
の本能的といえるほどの歩き方からみればやはり
ウ 複雑な山を越えるのにどんなに遠回りをしても、少しも損をすることな
くごく自然に頂上に達することからみればやはり
エ峠道を最初に歩いた人は天才的な登山者であったとしても、峠道が進化
しながら現在にまで至ったことからみればやはり
この文章の組み立てと表現の特色を説明した文として最も適当なものを、次
のア〜エの中から一つ選んで、〇をつけなさい。
アG段落にまとめがあるが、峠道やそこを初めて歩いた人への気持ちが比
喩や具体例などで表現されたC • D • E • F段落に力点がある。
イ 文章の首尾がよく照応し、A-G段落とも一部に文語的な表現を用いるこ
とによって山の頂上に達したときの楽しさを強く訴えている。
ウA段落に示された筆者の歴史に対する関心が文章全体にみられ、とくに
E段落は峠道の進歩の過程を具体的に述べて結論となっている 。
工 峠道の詳しい説明はD-E段落に書かれているが、F段落には短い文を
重ねた表現で峠の進化や変化に対する驚きの気持ちがみられる。
!読み物
人は山に向かう
•池澤夏樹
どうもこの夏は忙しいことになりそうなので、梅雨が明ける前に2日だ
けの夏休みを作った。何をしょうかといろいろ考えたあげく、上信越の
ちょっとした山に登ることにした。前の日に車で麓の温泉に行って、朝早
くから登り、夕方には降りてこようというほんの遠足程度の山登りだが、そ
第6課自然と人間111
れでも行く前には結構うきうきするものだ。
この山、最近やたらに流行している深田久弥の『日本百名山』などには
もちろん入っていない地味な山で、標高は2000 メ ートルを少し越えるくら
い。冬こそ東側斜面がスキー客で賑わうが、夏に西側から登る人は多くは
なさそうだ。
頂上のすぐ下に相当に広い高層湿原があって、池塘が点在し、高山植物
がずいぶんきれいだという。人が少なくて、登るのが楽で、しかも花がき
れいというのはいい山だ。早朝からさっさと登ってこの湿原のあたりをぶ
らぶら散歩するのも悪くないと思った。麓の一帯はかっては冬の雪に埋も
れて孤立したというなかなかの秘境で、『北越雪譜』で知られる江戸後期の
文人鈴木牧之に紀行記1巻がある。宿にはもちろん温泉完備。
なぜ人は山に登るかという陳腐な質問がしばしば発せられる裏には、登
山が日常の論理にそぐわない行為だという認識がある 。山に登ることの利
は見えにくいのだ。人と違うことをするには弁明が必要なのが人間の社会
で、経済的に有利であるとか、社交上の益が大きいとか、美容に効果があ
るとか、万民の認める利のない行為はなかなか他から認められない。健康
のためなどと恥ずかしい言葉を口にするわけにもいかない。要するに、山
は普通の人の視野の外にあるのだ。
なぜ登るのかとしっこく聞かれるのが嫌になると、そこに山があるから
などとはぐらかした答えで相手を煙(けむ)に巻・いて逃げる。ではそこに
木があれば登るのか問いかえしてみれば、趣味としての木登りというのは
大人の世界ではない以上、山の場合はもう少し何か理由があることがわか
るはずだが、その理由はなかなか言葉にならない 。
個人の感覚的な楽しみを言葉にするのはむずかしい。そこをなんとか言
葉にしてみょうとすると、われわれの普段の生活に山的なるものが不足し
ているからとでも言うほかない 。それを強く意識する人とそうでない人が
おり、意識する人は山に登って不足を補おうとする。では山的なるものと
は何か。よくよく考えているうちに、人間本来の生きる姿勢、日々の生活
の基本型とずいぶん大きな答えが出てきた。
楽しみに出かけた山は、しかし、あまりよい状況になかった。前の日は
車に乗っていても日焼けするほどの快晴だったのに、当日の朝、5時に起
きてみると、ひどい降りだ。梅雨が明けていないのだから、たしかに雨の
確率は高かったのだが、なんとか合間に登れると計算して来た。その計算
が1日ずれてしまったらしい。登れないことはないけれども、やはり雨は
うっとうしい。湿原散歩などの楽しみは半減するし、それに同行の友人が
山には不慣れで、登りはともかく帰りの足元にいささかの不安がある。最
112 日语综合教程第七册
初の数百メートルの登りは相当な急傾斜だ 。山の地盤は連日の梅雨の雨を
吸っているから、崩れているところもあるだろう。これが山小屋で1泊し
た翌日の下山の日であれば 、雨でもなんでも降りてしまうところだが、登
る前にこれでは出端をくじかれる。いろいろ考えたあげく、ここはいさぎ
よく引き下がることにした。
だからと言って一日中ずっと露天風呂に漬かっているわけにもいかない。
少しは身体を動かしたい 。何をしようかと地図を睨んで、谷に沿って延々
と伸びる遊歩道を見つけた。これを歩くのなら雨でも大丈夫だろう。等高
線沿いだからアップダウンはほとんどないが 、ブナ林の中を歩く快感は
たっぷり味わえる。
山が人の生活の基本型だというのは、もともと人は山が要求するような
変化が多くて妥協の余地の少ない生活をしていたということである 。都会
の生活はすべて人と人との約束ごとからなっている 。朝の決まった時間に
家を出た者は夜の決まった時間に帰ってくる 。その間にものが食べられな
いということはないし、家に帰りつけないこともない 。だが、昔、人が農
耕経済という便法を発明する前、日々の生活はそんなに安定したものでは
なかった。人間は相当なリスクを含む一日一日を乗り切って生きていた。狩
猟採集経済では農耕のような収穫の安定は望めない。状況は日々変化する
し、それに応じて次々に正しい判断をしなければ生きてゆけない 。言って
みれば、初志貫徹と臨機応変という二つの原理の間で微妙なバランスを
とって生きてゆくのが人の、あるいはすべての動物の、生活の基本だった。
遊歩道は意外にもなかなかの難コースだった 。雪解けの後で一応の整備
はしたのだろうが、その後から草刈りをした形跡はない。足元はチシマザ
サに覆われて地面が見えないし、ところによっては急な斜面を縫って渡る
道が幅の半分まで崩れていたりする。細い急流を飛び越えるようなところ
もある。雨は小降りになっていたけれども、道をはずれて迷わないように
するのにも気をつかう。地図の上で見れば等高線沿いの平坦なコースだが、
実際には細かな起伏があって、登り下りをそれぞれ、合計すればちょっと
した丘ぐらいになるかもしれない。厚く敷きつもったブナの落ち葉を踏ん
で歩くのは心地よいし、時おり足を止めて上を見れば日の光を透かすブナ
の葉は互いに重なりあって明るい美しい緑を見せている 。天候の許すかぎ
りの愉快な遠足になったと喜んだ。
山はそこに向かう者の思惑をまったく無視する 。あたりまえのことだが、
都会で安楽な生活を送っているとそういうことを忘れがちになる。だれが
来ても標高をおまけしてはくれないし、崩れるべき場所はかならず崩れる。
降る時には降る。水を忘れて山頂に着いたら、数百メートル下の沢に降り
ないかぎり水はない。高山の木や草は厳しい条件をすべて満たすことで生
第6課自然と人間 113
きている。夏に登って色あざやかに咲く花々を見る者は、その花が:L年の
4分の3は雪の下に埋もれてじっと待っていたことを思うべきだろう。
せっかく登ったのに景色が見えないと愚痴を言う前に、山は曇っていてあ
たりまえ、高い山に雲が湧かないはずがないと思い知るべきなのだ。だか
らこそ、たまたま晴れた山頂からの遠景を喜ぶこともできる。
自然は厳しいという言葉の内容をよく考えてみれば 、社会は甘いという
裏が見えてくる。人間は社会という名の相互援助システムを営々と築きあ
げて、めったなことでは個人が脱落しないようにした。結構なことだが、そ
れに安心してただ寿命が伸びて単純な快楽で日々を満たすことができるの
をだらしなく享受しているわれわれではないか 。個人としてリスクを負う
ことも、個人としての力量を問われることもほとんどないのが今の平地の
生活。それを山的なるものの不足と感じるのだ。山に行けば自分の基礎体
カ以外に頼れるものは何もない。それも、数字では決して表記できない種
類の、精神的なものも含めた総体としての体力。そしてことに応じる判断
カ。大袈裟に言えば、荒野で1人で生きてゆく基礎的な能力のすべて。そ
れを発揮したその先で、湿原に咲く花々や心地よい疲労と達成感、おいし
い昼食などが待っていてくれるからこそ、人は山に向かうのだ。
遊歩道はそれなりによかったが、麓まで行って登らなかった山は後々ま
で気になる。もう一度なんとか夏休みを工面して 、この山を再訪し・、かな
らず山頂をきわめて湿原の池塘のまわりを歩こうと思いながら 、帰途につ
いた。
『STUDIO VOICE』(1992年9月号)による
作者紹介
池澤夏樹(いけざわなつき)
1945年——。小説家、詩人。北海道の生まれ。自然科学、哲学への関心と詩的な感性を融合さ
せ、小説、詩、評論など、幅広く執筆活動を続けている。主な作品に『夏の朝の成層圏』『スティ
ル・ライフ』『真昼のプリニウス』『ギリシアの誘惑』などがある。
当注釈
〇上信越(じょうしんえつ)
上野(こうずけ、今の群馬県)、信濃(しなの、今の長野県)、越後(えちご、今の新潟県)の総
称。また、その三県にまたがる地域。
114日语综合教程第七册
❷ 深田久弥(ふかだきゆうや)
小説家•山岳紀行家。日本山岳会副会長。1903年、石川県に生まれ、1971年茅ヶ岳頂上近くで脳
卒中のため急逝した。「日本百名山」は1964年刊行の山岳随筆集で、第16回読売文学賞を受賞し
た。
❸ 『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)
鈴本牧之の1836年一1842年の著。越後での雪の観察記録や雪国の風俗、習慣などをまとめたもの。
雪国の風俗と人情を、エピソードを交えてこまやかに描写したこの本は、文章も平易で、現代人
が読んでも十分楽しめるものである。
❹鈴木牧之(すずきぼくし)
鈴本牧之は江戸後期の文人。1770年、越後の国魚沼郡塩沢に生まれ、1842年、73歳で没している。
❺ 紀行記(きこうき) 旅行记,游记
1829年刊行の『秋山紀行』のこと。長野県、新潟県境を流れる中津川沿いの山地集落秋山郷の紀
行文。
❻ 煙(けむ)に巻く(慣用句) 说大话迷惑人,让人莫名其妙
大げさなことや訳のわからないことを言って、相手を戸惑わせる
第6課自然と人間 115
7
城の崎にて
本文
•志賀直哉
山の手線の電車に跳ね飛ばされてけ
がをした、その後養生に、1人で但馬の
城崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎
カリエスになれば致命傷になりかねな
いが、そんなことはあるまいと医者に
言われた。2、3年で出なければ後は心配
はいらない、とにかく要心は肝心だか
らと言われて、それで来た。3週間以上
—ー我慢できたら5週間くらいいたいものだと考えて来た 。
頭はまだなんだかはっきりしない。物忘れが激しくなった。しかし気分は
近年になく静まって、落ち着いたいい気持ちがしていた。稲の取り入れの始
まるころで、気候もよかったのだ。
1人きりで誰も話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前のい
すに腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らして
いた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ上りになった道にい
い所があった。山のすそを回っている辺りの小さなふちになった所にやまめ
がたくさん集まっている。そしてなおよく見ると、足に毛の生えた大きな川
がにが石のようにじっとしているのを見つけることがある。夕方の食事前に
はよくこの道を歩いてきた。冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい
清い流れについていくとき考えることはやはり沈んだことが多かった。寂し
い考えだった。しかしそれには静かないい気持ちがある。自分はよくけがの
ことを考えた。一つ間違えば、今ごろは青山の土の下にあお向けになって寝
ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷
もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。それももうお互いに何の交渉
もなく、—— こんなことが思い浮かぶ。それは寂しいが、それほどに自分を
116日语综合教程第七册
恐怖させない考えだった。いっかはそうなる。それがいっか?—— 今までは
そんなことを思って、その「いつか」を知らず知らず遠い先のことにしてい
た。しかし今は、それが本当にいっか知れないような気がしてきた。自分は
死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなけ
ればならぬ仕事があるの;だ、—— 中学で習った『ロード•クライヴ』という
本に、クライヴがそう嵐うことによって激励されることが書いてあった。実
は自分もそういうふうに危うかったできごとを感じたかった。そんな気もし
た。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に
対する親しみが起こっていた。
自分の部屋は2階で、隣のない、わりに静かな座敷だった。読み書きに疲
れるとよく縁のいすに出た。わきが玄関の屋根で、それが家へ接続する所が
羽目になっている。その羽目の中にはちの巣があるらしい。虎斑の大きな
太ったはちが天気さえよければ、朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いて
いた。はちは羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根に下
りた。そこで羽や触角を前足や後ろ足で丁寧に整えると、少し歩き回るやっ
もあるが、すぐ細長い羽を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛び
立つと急に早くなって飛んでいく。植え込みのやつでの花がちょうど咲きか
けで、はちはそれに群がっていた。自分は退屈すると、よく欄干からはちの
出入りを眺めていた。
ある朝のこと、自分は1匹のはちが玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。
足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。ほ
かのはちはいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回る
が全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いているはちはいかにも生き
ているものという感じを与えた。そのわきに1匹、朝も昼もタも、見るたび
に一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたい
かにも死んだものという感じを与えるのだ。それは3日ほどそのままになつ
ていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほか
のはちがみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たいかわらの上に一つ残った
死骸を見ることは寂しかった 。しかし、それはいかにも静かだった。
夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、本の葉も地面も屋根もきれいに洗
われていた。はちの死骸はもうそこになかった。今も巣のはちどもは元気に
働いているが、死んだはちは雨どいを伝って地面へ流し出されたことであろ
う。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、たぶん泥にまみれてど
こかでじっとしていることだろう。外界にそれを動かす次の変化が起こるま
では死骸はじっとそこにしているだろう。それともありに引かれていくか。
それにしろ、それはいかにも静かであった。せわしくせわしく働いてばかり
いたはちが全く動くことがなくなったのだから静かである。自分はその静か
第7課城の崎にて 117
さに親しみを感じた。自分は『范の犯罪』という短編小説をその少し前に書
いた。范という中国人が過去の出来事だった結婚前の妻と自分の友達だった
男との関係に対する嫉妬から、そして自身の生理的圧迫もそれを助長し、そ
の妻を殺すことを書いた。それは范の気持ちを主にして書いたが、しかし今
は范の妻の気持ちを主にし、しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを
自分は書きたいと思った。 ’
『殺されたる范の妻』を書こうと思った。それはとうとう書かなかったが、
自分にはそんな要求が起こっていた。その前からかかっている長編の主人公
の考えとは、それは大変違ってしまった気持ちだったので弱った。
はちの死骸が流され、自分の眼界から消えて間もないときだった。ある午
前、自分は円山川、それからそれの流れ出る日本海などの見える東山公園へ
行くつもりで宿を出た。「ーの湯」の前から小川は往来の真ん中を緩やかに流
れ、円山川へ入る。ある所まで来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中
の物を見ながら騒いでいた。それは大きなねずみを川へ投げ込んだのを見て
いるのだ。ねずみは一生懸命に泳いで逃げようとする。ねずみには首のとこ
ろに7寸ばかりの魚ぐしが刺し通してあった。頭の上に3寸ほど、のどの下
に3寸ほどそれが出ている。ねずみは石垣へはい上がろうとする。子供が2、
3人、40ぐらいの車夫が1人、それへ石を投げる。なかなか当たらない。カ
チッカチッと石垣に当たって跳ね返った。見物人は大声で笑った。ねずみは
石垣の間にようやく前足をかけた。しかし入ろうとすると魚ぐしがすぐにつ
かえた。そしてまた水へ落ちる。ねずみはどうかして助かろうとしている。顔
の表情は人間にわからなかったが、動作の表情に、それが一生懸命であるこ
とがよくわかった。ねずみはどこかへ逃げ込むことができれば助かると思っ
ているように、長いくしを刺されたまま、また川の真ん中のほうへ泳ぎ出た。
子供や車夫はますますおもしろがって石を投げた。わきの洗い場の前で餌を
あさっていた2、3羽のあひるが石が飛んでくるのでびっくりし、首を伸ばし
てきょろきよろとした。スポッ、スポッと石が水へ投げ込まれた。あひるは
頓狂な顔をして首を伸ばしたまま 、鳴きながら、せわしく足を動かして上流
のほうへ泳いでいった。自分はねずみの最期を見る気がしなかった。ねずみ
が殺されまいと、死ぬに決まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ
回っている様子が妙に頭についた。自分は寂しい嫌な気持ちになった。あれ
が本当なのだと思った。
自分が願っている静かさの前に、ああいう苦しみのあることは恐ろしいこ
とだ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒
は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努
力を続けなければならない。今自分にあのねずみのようなことが起こったら
自分はどうするだろう。自分はやはりねずみと同じような努力をしはしまい
118 日语综合教程第七册
か。自分は自分のけがの場合、それに近い自分になったことを思わないでは
いられなかった。自分はできるだけのことをしようとした。自分は自身で病
院を決めた。それへ行く方法を指定した。もし医者が留守で、行ってすぐに
手術の用意ができないと困ると思って電話を先にかけてもらうことなどを頼
んだ。半分意識を失った状態で、いちばん大切なことだけによく頭の働いた
ことは自分でも後から不思議に思ったくらいである。しかもこの傷が致命的
なものかどうかは自分の問題だった。しかし、致命的なものかどうかを問題
としながら、ほとんど死の恐怖に襲われなかったのも自分では不思議であっ
た。「フェータルなものか、どうか?医者は何と言っていた?」こうそばにい
た友に聞いた。「フェータルな傷じやないそうだ。」こう言われた。こう言わ
れると自分はしかし急に元気づいた。興奮から自分は非常に快活になった。
フェータルなものだともし聞いたら自分はどうだったろう。その自分は
ちょっと想像できない。自分は弱ったろう。しかしふだん考えているほど、死
の恐怖に自分は襲われなかったろうという気がする。そしてそう言われても
なお、自分は助かろうと思い、何かしら努力をしたろうという気がする。そ
れはねずみの場合と、そう変わらないものだったに相違ない。で、またそれ
が今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろう
と思うと「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響は
しないものに相違ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、
しない場合でも、それでいいのだと思った。それはしかたのないことだ。
そんなことがあって、またしばらくして、ある夕方、町から小川に沿うて
1人だんだん上へ歩いていった。山陰線のトンネルの前で線路を越すと道幅が
狭くなって道も急になる、流れも同様に急になって、人家も全く見えなく
なった。もう帰ろうと思いながら、あの見える所までというふうに角を一つ
一つ先へ先へと歩いていった。物がすべて青白く、空気の肌ざわりも冷え冷
えとして、もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた。大き
な桑の木が道端にある。向こうの、道へ差し出した桑の枝で、ある一つの葉
だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れのほかは
すべて静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラとせわしく動く
のが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。しかし好奇心もあっ
た。自分は下へ行ってそれをしばらく見上げていた。すると風が吹いてきた。
そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場
合を自分はもっと知っていたと思った。
だんだんと薄暗くなってきた。いつまで行っても、先の角はあった。もう
ここらで引き返そうと思った。自分は何気なくわきの流れを見た。向こう側
の斜めに水から出ている半畳敷きほどの石に黒い小さいものがいた。いもり
だ。まだぬれていて、それはいい色をしていた。頭を下に傾斜から流れへ臨
第7課城の崎にて 119
んで、じっとしていた。体から滴れた水が黒く乾いた石へ1寸ほど流れてい
る。自分はそれを何気なく、しゃがんで見ていた。自分は先ほどいもりは嫌
いでなくなった。とかげは多少好きだ。やもりは虫の中でも最も嫌いだ。い
もりは好きでも嫌いでもない。10年ほど前によく蘆の湖でいもりが宿屋の流
し水の出る所に集まっているのを見て、自分がいもりだったらたまらないと
いう気をよく起こした。いもりにもし生まれ変わったら自分はどうするだろ
う、そんなことを考えた。そのころいもりを見るとそれが思い浮かぶので、
いもりを見ることを嫌った。しかしもうそんなことを考えなくなっていた 。
自分はいもりを驚かして水へ入れようと思った。不器用に体を振りながら歩
く形が思われた。自分はしゃがんだまま、わきの小まりほどの石を取り上
げ、それを投げてやった。自分は別にいもりをねらわなかった。ねらっても
とても当たらないほど、ねらって投げることの下手な自分はそれが当たるこ
となどは全く考えなかった。石はコツといってから流れに落ちた。石の音と
同時にいもりは4寸ほど横へ跳んだように見えた。いもりはしっぽを反らし、
高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当たつ
たとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。する
とひじを張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内
へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石につい
た。もう動かない。いもりは死んでしまった。自分はとんだことをしたと
思った。虫を殺すことをよくする自分であるが、その気が全くないのに殺し
てしまったのは自分に妙な嫌な気をさした。もとより自分のしたことでは
あったがいかにも偶然だった。いもりにとっては全く不意な死であった。自
分はしばらくそこにしゃがんでいた。いもりと自分だけになったような心持
ちがして、いもりの身に自分がなってその心持ちを感じた。かわいそうに思
うと同時に、生き物の寂しさをいっしょに感じた。自分は偶然に死ななかっ
た。いもりは偶然に死んだ。自分は寂しい気持ちになって、ようやく足元の
見える道を温泉宿のほうに帰ってきた。遠く町外れの灯が見え出した。死ん
だはちはどうなったか。その後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あ
のねずみはどうしたろう。海へ流されて、今ごろはその水ぶくれのした体を
ごみといっしょに海岸へでも打ち上げられていることだろう。そして死なな
かった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝
しなければすまぬような気もした 。しかし、実際喜びの感じはわき上がって
はこなかった。生きていることと死んでしまっていることと、それは両極で
はなかった。それほどに差はないような気がした。もうかなり暗かった。視
覚は遠い灯を感ずるだけだった。足の踏む感覚も視覚を離れて、いかにも不
確かだった。ただ頭だけが勝手に働く。それがいっそうそういう気分に自分
を誘っていった。
120日语综合教程第七册
3週間いて、自分はここを去った。それから、もう3年以上になる。自分は
脊椎カリエスになるだけは助かった。
『志賀直哉全集第2巻』による
筆者紹介
志賀直哉(しがなおや)
1883年茨城県に生まれ、1971年死去。小説家。1910年武者小路実篤、有島武郎らと雑誌『白
樺』を創刊した。同誌創刊号に『網走まで』を発表以来、『城の崎にて』『和解』『暗夜行路』『小
僧の神様』『灰色の月』などの作品を書き、近代日本の代表的作家として、〃小説の神様〃と称
された。
!注釈
❶山の手線(やまのてせん)山手线
JR山手線。東京都区部に環状に敷かれた鉄道線。
❷但馬(たじま)
今の兵庫県の北部。
❸城崎温泉(きのさきおんせん)
兵庫県北部城崎町にある温泉。
〇やまめ 真舞
サクラマスの稚魚ないし陸封魚の称。
❸青山(あおやま)
東京都港区内の地名。本文では青山墓地のことを指す。
❻『ロード・クライヴ』(Lord Clive) 罗伯特克莱夫勋爵
1840年に刊行されたイギリスの軍人•政治家クライヴ卿(1725-1774)の伝記。
❼八手(やつで) 八角金盘
ウコギ科の常緑低木。山地に自生する。冬の初めに白い小花を球状に開く。葉は大きく、手のひ
らの形に分かれている。
❸『范の犯罪』(はんのはんざい)
1913年10月に発表された短編小説。
0『殺されたる范の妻』
文中の「たる」は、完了を表す文語助動詞の「たり」の連体形である。
価 東山公園(ひがしやまこうえん)
温泉街の東の端にある公園。
饌円山川(まるやまがわ)
兵庫県内を流れる川。
©「ーの湯」(いちのゆ)
城崎温泉で最大の共同浴場。
©寸(すん)寸
長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3. 03センチメートル。
第7課城の崎にて 121
® 山陰線(さんいんせん)
山陰本線のこと。山陰地方を縦貫するJR線。京都から福知山、鳥取、松江を経て下関市の幡生
(はたぶ)に至る。全長675.4キロメートル。
@蘆の湖(あしのこ)
神奈川県南西部、箱根山にある火口原湖。「芦ノ湖」とも書く。湖面標高725 メートル。最大深度
41メートル。周囲21キロ メートル。面積7平方キロ メートル。
、新しい言葉
跳ね飛ばす(はねとばす) [他五] はねて飛ばす。勢いよく遠くに跳ねやる。/撞
養生(ようじょう) [他サ] 出,弹出去;(水)飞溅。
脊椎(せきつい) [名] ①生命を養うこと。健康の増進を図ること。/养
カリエス(Karies) [名] 生,保养。②病気病後の手当てをすること 。Z
冷え冷え(ひえびえ) [副] 养病,疗养。
危うい(あやうい) [形] 脊椎動物の躯幹の支柱をなす骨格。/脊椎。
羽目(はめ) [名] (医)骨の慢性炎症。主として、結核菌による。Z
虎斑(とらふ) [名] 骨疡,骨疽。
①(風、空気などが)冷えるさま。冷たいさま。Z
あわい [名] 冷冰冰,凉飕飕。②心が空虚でさびしいさま。Z
すり抜ける(すりぬける) [自ー] 空虚,孤寂。
①危険である。あぶない。/危险。②気がかり
触角(しょっかく) [名] である。心配である。/担心,担忧。③成否が
気になる。あてにならない。/靠不住。
①板張りの形。板を平らに並べて張ったもの。/
(出于保护墙壁和建筑设计的)板壁。②場合。境
遇。/困境,窘况。
①虎の背の毛のように、黄褐色の地に太い黒色
の斑紋のあるもの。/虎皮似的斑纹,虎皮色。②
馬の毛色が虎の背の毛のような斑紋のあるも
の。/(马的毛色)虎斑马色
物と物、時と時の間。すきま。(古語、今では、も
う使わない。)/缝隙,间隙。
①狭い所や群集の中などを、ぶっからないよう
に、体をかわしながら抜け出る。/挤过去,穿
过去。②あれこれと紛らわしてうまく免れる。/
蒙混过去,逃脱。
昆虫などの頭の先にあるひげのような器官。/
触角。
122 日语综合教程第七册
ぶん一と [副] (擬声)昆虫が飛んでいるときに翼の発した音。/
植え込み(うえこみ) [名]
だらしない [形] 嗡嗡。
拘泥(こうでい) [名・自サ] ①植え込むこと。/种植。②庭園で、草や木の
一向(いっこう) [副]
せわしい(忙しい) [形] たくさん植えてあるところ。/树丛,花草丛。
助長(じょちょう) [名・他サ] ①しまりがない。節度がない。/不检点,散漫;
眼界(がんかい) [名] 衣冠不整,吊儿郎当。②体力がなく弱々しい様
魚ぐし(うおぐし) [名]
カチッカチッと [副] 子。/软弱无カ。
つかえる [自ー]
きょろきょろ [副] 小さいことに執着して融通がきかないこと。こ
スポッスポッと
[副] だわること。/拘泥,固执。 ’
頓狂(とんきょう)
フェータル(fhtal) [形動] (多く後に打消しの語を伴う)まったく。全然。
[名・形動]
完全に。/完全,全然,一点儿也。
①暇が少ない。いそがしい。/忙忙碌碌。②(動
作)落ち着きがない。せかせかしている。/匆匆
忙忙,急急忙忙。③(うるさく感じられるほど)
しきりに行われて絶え間がない。/急促,不停
的。
①ある意図的な働きかけによって、人、物事の
傾向などがいっそう盛んになるようにするこ
と。/促进,提高。②余計な助力をして、かえっ
てそれを害すること。/助长。
①目に見える範囲。視界。/视野。②考えの及
ぶ範囲。/思路,眼界。
魚を焼くときに挿して用いる串。/(烤鱼用的)
竹签或铁签。
小さな硬い物が打ち当たったときの鋭い音。Z
(坚硬的东西碰撞时发出的声音)咔嚓、咔嚓。
ふさがったり突き当たったりして先に進めなく
なる。滞る。/卡住,堵塞,梗塞,阻碍。
見るものが珍しかったり探し物があったりし
て、せわしく辺りを見回すさま。/(眼睛不停地
四周扫视)东张西望。
物が勢いよく 一気に抜けたり、落ち込んだり、
かぶさったりするさま。/砰的一声,一下子(掉
进)。
あわてて間が抜けていること。だしぬけで調子
はずれなこと。/突然发狂,顿时发疯。
運命の。宿命的な。致命的な。/命运的,上帝
安排的;致命的。
第7課城の崎にて 123
そわそわと [副] 気がかりなことがあって言動が落ち着かないさ
ま。ハい神不定,坐卧不安,慌张。
もの静か(ものしずか) [形動] ①なんとなく静かなさま。/寂静,静悄悄。②
言語や動作などの落ち着いて穏やかなさま。/
ヒラヒラ [副] 文静,稳重。
知れる(しれる) [自ー] 紙片や木の葉など軽くて薄いものが風を受けて
ひるがえるさま。/(随风)飘动,飘扬,翩翩。
いもり(井守) [名] ①容易に分かる。自然に察せられる。/可知。②
他人に知られる。/被人知道,被人发现。③(「知
滴れる(したたれる) [自ー] れた」の形で)分かりきっていて言うに及ばな
やもり(守宮) [名] い。/不用说,明摆着。
不器用(ぶきょう) [形動] イモリ科の両生類。日本固有の動物で、淡水に
すみ、形はヤモリに似る。腹は赤色で黒い斑点
反らす(そらす) [他五] があり、アカハラともいう。/(形状如蜥蜴)蝶
まり(鞠・毬) [名] 螺。
水などがしずくとなって、下へ垂れ落ちる。Z
こつ(と) [副] (水滴往下)滴,滴下。
ヤモリ科の爬虫類。トカゲによく似るが、足の
まくれる(捲くれる) [自一] 裏に吸盤がある。/(动物)壁虎,守宫。
①器用でないこと。手際の悪いこと。/不灵巧,
ひじを張る(肘をはる) [慣用] 拙笨;不熟练。②事態への対処が下手なこと。/
(处理事务)简慢,拙笨。
のめる [自五] 後方へそるようにする。/(身体)向后仰,向后屈
もとより [副] 伸;(尾巴)反翘。
124 日语综合教程第七册 遊びやスポーツに用いるボール。革製、ゴム製、
綿の芯を糸で巻いたものなどがある。/(用皮革
或橡胶制成的)球。
固い物が打ち当たったときの音。/咔嚓,咔嗒,
冷。
端が巻かれたように上がった状態になる。/卷
缩,卷起。
①肘を張り出して、いかにも威張った様子をす
る。/支开胳膊肘。②言い出したことをあくま
で主張しつづける。意地を張る。/坚持己见,固
执;意气用事。
前へ倒れる。前方へ傾く。/向前倒下,向前倾
斜。
①はじめから。もともと。/本来,原来,根本。
しゃがむ [自五] ②言うまでもなく。無論。/不用说,固然。
膝と腰を曲げて低い姿勢になる。かがむ。/蹲,
みずぶくれ(水脹れ) [名] 蹲下。
皮下に漿液がたまって膨れること。また、その
打ち上げる(うちあげる) 〔他ー] もの。/水肿;起泡,水泡。
波が物を水中から陸へあげる。/(波浪把东西)
不確か(ふたしか) [形動] 冲上岸。
確かでない様子。あやふや。/不确实,含糊。
学習の手引き
❶ 情景や小動物の描写、場面の転換、時間の経過、主人公の気分や心理の推移に注意
し、考えながら読むこと。
❷ この物語の発端としてどのような事情と気持ちが描かれているか。
❸ 筆者は、城崎に来てからの生活の様子をどのように描写しているか。その描写から
当時の筆者の生活を想像すること。
❹ ヤマメと川ガニの描写をよく味わうこと。
❺ 自分が死んで青山(墓地)の土の下にあることを筆者は想像したが、その段落を読み
ながら、筆者の気持ちを考えてみること。
❻ 文章表現の角度から、生きている蜂と死んだ蜂についての描写をよく読むこと。
〇 蜂の死を見た筆者の当時の感じをよく考えること。
❽ ねずみが必死に逃げ回る描写をよく読むこと。当時の筆者の気持ちを考えること。
❾ 風に吹かれてヒラヒラと動く桑の葉に関する描写、いもりに関する描写の部分をよ
く読むこと。
® 本文の中から擬態語と擬声語を抜き出して、その効果を考えてみること。
言葉と表現
そつ 動詞連用形+はしまいか 会不会…;不至于会…吧 j
「動詞連用形+はしない」から変化したもので、ある事態が起こったりする恐
れがあるのではないかという話し手の心配の気持ちを表す場合に用いる 。
❶ 台詞を忘れはしまいか、間違いはしまいか、とハラハラしながら観てしまう
のです。(我怀着忐忑不安的心情观看他的演出,心想:该不会忘了台词吧?会
不会说错呢?)
第7課城の崎にて 125
❷ そうでなくても、「こういう事をしたら相手を傷つけはしまいか」、と考えた
ことはあるのだろうか?(即便不是如此,你有没有想过:这样做的话会不会
伤害到对方呢?)
❸そうすると、さらに周りの人に変に思われはしまいかともっと気になり、震
えは余計にひどくなる。(这样做的话,周围的人会不会觉得我很奇怪呢? 一想
到这些,就更在意了,身体也颤抖得更厉害了。)
❹ 江戸時代と聞くと、何となく緑豊かな山々の日本を想像しはしまいカ七しか
し実際はそんなものではなかった。(一说到江户时代,会不会都自然而然地去
想象青山绿野的日本呢?但,事实并非如此。)
❺ 私たち親は、我が子がそれらの犯罪や事故に巻きこまれてはいないか、巻き
こまれはしまいかと、「はらはら」「どきどき」せざるをえない。(我们做父母
的,不得不“忐忑不安”、“胆战心惊”,担心自己的孩子是否已经卷入那些犯
罪活动和事故里,或者是以后会不会卷进去?)
匕我おそう(襲う) 觉得•••,感到… j
好ましくない人、または人相当のものが不意に攻めかかったり、危害を加え
たりする意味を表す。「〜におそわれる」というような受身表現の場合は、好ま
しくない感情が突然おそいかかる意味を表す。
❶ はじめはなんとなく気持ちが悪いなあ、という程度だったのが、だんだん食
事の後吐き気におそわれるようになった。(起初,只是总觉得身体有点不舒
月艮,后来渐渐变得吃了饭就觉得想吐。)
❷ この先どうなるのだろうと、深刻な不安におそわれる。(我感到十分不安,担
心今后会发生什么事。)
❸ お酒を飲んだ次の日の朝、頭痛や胸やけなどの不快な気分におそわれること
を経験した方は多いでしょう。(喝酒的第二天早上,感到头痛、胸闷、浑身难
受,大概彳艮多人都有过这样的经历吧。)
❹ 妻の死により深い悔恨におそわれる。(由于妻子的死,我深感悔恨。)
❺ この道を通るときは、いつも1人であり、急いで抜け出したい気持におそわ
れるのである。(每次经过这条街的时候,总是孤单1个人,我巴不得能立马走
出这条街。)
’逞、〜に相違ない 无疑…,确实…— J
名詞、動詞の後に付けて、ある状況または仮定条件の下で、過去、現在、未
来のことについて確実性の高い推量を表す。書き言葉として用いる。「〜にちが
いない」「〜に決まっている」と置き換えられる。
126日语综合教程第七册
❶ 彼は一週間前に山に入ったまま、いまだに戻ってこない。きっと遭難したに
相違ない。(他一星期前进山以后,到现在还没回来。一定是遇难了。)
❷2年前のあの事件さえなければ、彼はとうに課長に昇進していたに相違な
い。(只要没有两年前的那件事,毫无疑问他早就升为科长了。)
❸ こういう場合に、俺が行かないと、嫌いだから行かないんじゃないかと邪推
•するに相違ない。(这时候,我要是不去的话,别人肯定会瞎猜我是因为讨厌オ
不去的。)
❹ 彼は朝からいても立ってもいられない。何か事件に巻き込まれたに相違な
公。(他从早上开始就坐立不安。一定是卷入到什么案件里去了。)
❺(彼には)思い切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない。(他肯
定抱着一种希望,想施行雷厉风行的政治。)
舟〜かしらーーー ー__________ )
終助詞「か」+「知らん」の転用。
1. 副助詞。疑問を表す語について、物事が不確かであるという意を表す。
❶ 彼女はどこかしら高貴なところがある。(她好像有些地方显得有点高贵。)
2, 終助詞。A,話し手の自問。
❶こんなに幸せでいいかしら。(自己这么幸福行吗?)
B,婉曲な依頼。
❶この仕事、やってもらえるかしら。(这个工作,能请你帮个忙
吗?)
❷あの本、貸していただけないかしら。(这本书,能借给我看看
吗?)
佥 Wわそわ(祯)Wg , ・神!:定[]:「ニ〕
気がかりなことがあって言動が落ち着かない様子を表す。
❶ ある日、いつものように水槽の中を覗き込むと、妙にそわそわした魚がい
る。どうしたのだろうか、。全く落ち着きがない。(有一天,像往常一样,我
朝鱼缸里一看,发现鱼儿莫名其妙地在鱼缸里乱窜 。这是怎么了?完全平静不
下来。)
❷ 日曜日にフォークダンスのパーティーが実家の近くであるんです。楽しみな
のとちょっと不安とで、何だかそわそわしています。(星期天,友良家附近有一
场民族舞蹈晚会,我是既期盼又不安,总觉得有点心神不宁 。)
❸ 今日はクリスマスイブ。街を歩く人達もなんだかそわそわしているように感
じました。(今天是圣诞节前夜。我觉得每个走在街上的人似乎都有点心神不定。)
❹ 大切な君との時間、話したい事はたくさんあるのに、なんだかそわそわし
第7課城の崎にて127
て、どうにも落ち着かない。(不知为什么,在和你呆在ー起的宝贵的时间里,
我有好多话想说,却又觉得心神不安,难以平静。)
W気在おこす(連證)要二______ ________ ________ J
前の文を受けて、そのような気持ちを生じさせるという意味を表す 。
❶ 役者という仕事に対してくじけそうになると、この絵を見て、頑張るぞっと
やる気をおこ歩(对演员的工作,感到要受挫的时候,看ー看这幅画,它就会
给我奋进的动カ。)
❷ 国立がもともとの志望校ではなかったこともあって、私立受験がおわってか
らは、勉強する気をおこすのが大変でした。(因为国立大学原本就不是我报考
的学校,在参加完了私立大学的考试以后,学习就没有什么劲头了 。)
❸ わたしはこんなとき、親切にしてやろうなどという気をおこすと、ますます
調子に乗って始末におえなくなるのです。(在这个时候,要是对他亲热的话,
他就会更加得意,越发不可收拾 。)
❹ そもそも、自分から外に出ようなんて気をおこすことがなかった?(你自己
就没有产生过要外出的想法吗?)
❺ 時々いつもの食器を変え、食器戸棚に入れて出すとか目新しくして、食べた
い気をおこさせる工夫も良いと思います。(我觉得这样的办法也不错。即不时
换ー下平时的餐具,放进碗柜里再取出来,通过更新餐具来刺激食欲。)
少一気をきす(連諳) •食人•••,叫人二 _J
「いやだ」や「悪い」といったようなマイナス•イメージのことばの後に付け
て、そのような気持ちを生じさせるという意味を表す。
❶ しかし、巨人内部からも原監督のやり方にいやな気をさが•が出ているのは
事実だ。(但是,巨人队内部出现了对原教练的做法反感的人,这是事实 。)
❷「おに」は、「陰」のことで、「陽」に対して目に見えないもの、主に悪い気
をさすものです。(“鬼怪”属于“阴へ 与“阳”相反,无法目睹,往往令人产
生阴郁的感觉。)
❸ その気が全くないのに殺してしまったのは自分に妙な嫌な気をさした。(我完
全没有那种想法,却把它给杀了,这令我觉得怪怪的,彳艮不好受 。)
紬林 習&
ー、次の言葉を覚えなさい。
養生 脊椎 危うい 拘泥 だらしない そわそわと
128日语综合教程第七册
こびり付く 頓狂 滴れる 不器用 捲くれる もとより
二、 次の日本語を中国語に訳しなさい。
1.冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい清い流れについていくとき考え
ることはやはり沈んだことが多かった。寂しい考えだった。しかしそれには静
かないい気持ちがある。
2はちは羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根に下りた。そ
こで羽や触角を前足や後ろ足で丁寧に整えると、少し歩き回るやつもあるが、す
ぐ細長い羽を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。
3. 自分はねずみの最期を見る気がしなかった。ねずみが殺されまいと、死ぬに決
まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回っている様子が妙に頭につい
た。自分は寂しい嫌な気持ちになった。あれが本当なのだと思った。
4. 自分は弱ったろう。しかしふだん考えているほど、死の恐怖に自分は襲われな
かったろうという気がする。そしてそう言われてもなお、自分は助かろうと思
い、何かしら努力をしたろうという気がする。
5. もう帰ろうと思いながら、あの見えるところまでというふうに角を一つ一つ先
へ先へと歩いていった。物がすべて青白く、空気の肌ざわりも冷え冷えとして、
もの静かさがかえってなんとなく自分をそわそわとさせた。
6. しかし、実際喜びの感じはわき上がってはこなかった。生きていることと死ん
でしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような
気がした。
三、 本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
ん「3週間以上—— 我慢できたら5週間……」とあるが、作者のどういう気持ち
を表すか。作者は何を意識していたか。
2「しかし今は、それが本当にいっか知れないような気がしてきた。」とは、どう
いう意味か。
3作者は動き回っているはちの様子を描写したが、その観察の精密さと表現の簡
潔的確さのうかがえる部分を抜き出しなさい。
4.「忙しく立ち働いているはちはいかにも生きているものという感じを与えた。」
と、鮮やかな対照となっている表現を同じ段落から見つけ出しなさい。
5「顔の表情は人間にわからなかったが、動作の表情に、……」とあるが、「動作
の表情」とは何を指すか。
6.「アヒルは頓狂な顔をして……」とあるが、「頓狂な顔」とはどんな顔か、分か
りやすく説明しなさい。
/「あまり変わらない自分であろうと思うと……」とは、どういう意味か。
8. 「しかも、両方が本当で、影響した場合は……」の「両方」とは、何を指すか。
9. 「それはしかたのないことだ。」とは、筆者のどういう態度を示しているか。
第7課城の崎にて129
10. 「いもりだ。まだぬれていて、それはいい色をしていた。」という描写から、何
が感じられるか。
11. 筆者はいもりの死の様子を描写したが、その観察の精密さと表現の簡潔的確さ
のうかがえる部分を抜き出しなさい。
12. 「かわいそうに思うと同時に、生き物の寂しさを一緒に感じた。」とあるが、筆
者の立場に立って考えれば、この「寂しさ」はどこから来るものなのか。
13. 「しかし実際喜びの感じはわき上がってこなかった。」の理由は何か。
14. 「それがいっそうそういう気分に自分を誘っていった。」の「そういう気分」と
は、どういう気分なのか。
四、次の文章を読んで、後の質問に答えなさい。
①谷間に早くから©ただよっていた冷たい、黒ずんだ影が、いつか松林の斜面を
這いのぼっていて、空が明るく①冴えて白く光りはじめた。そんな時刻になっても
私の見つけた©松茸は数えるほどしかなかった。私は、兄がそれを叱るかもしれな
いと思い、枯れ松葉を影先で掘って捜しまわったが、まるで別の場所に来たように
松茸は見つからなかった。
これ以上いては足もとも見えなくなるという時間まで、兄は帰ろうと言い出さな
かった。しかし兄と並んで松林の斜面を下りはじめたとき、兄のバスケットの中に
もたいして松茸が集まっていないのを私は知った。私は自分の分を兄といっしょに
して、そのバスケットを持った。兄は地面に落ちていた枝を拾ってそれをやけに
なって振りまわし、草をなぎ倒しながら歩いていった。私たちは門の®かなわらの
鉄条網をくぐりぬけて外に出ると、もう一度、荒造りの木のとびらを仰いだ。そこ
には、前には気がつかなかったが、②番小屋の戸に掲げてあるのと同じ会社名が書か
れていた。私が兄の方を見ると、兄は顔をそむけ、黙って歩きだした。私はまだはつ
きりそこで何が起こったのか理解するには十分大きかったとは言えなかった。ただ
父母に©登いたさびしさと、①人気ない山の中で日が暮れようとしている心細さと
が、荒れはてた松林を見た不安な思いと一つになり、時おり私の鼻孔を、刺激的な
痛みとなってのぼってきた。私はバスケットを下げ、曲坐ば鼻をひくつかせながら、
郊外線の駅までおりていった 。
その時、兄がどんな思いをいだいていたのか、私は知らない。しかし兄は地蔵堂
の前まで来たとき、③私からバスケットをひったくると、あっという間に、そのなか
みをそばの渓流の中に捨ててしまった。私はそれを見ると、それまで国こらえてい
た悲しみが急にあふれてきて、思わず声をあげて泣きはじめた。兄はしばらく黙っ
て暗くなった渓流の面を眺めていた。それから私の手をとると、「もうあの山は家の
ものじやなくなったんだ。そんなこと、知らなかったんだ。でも、もう二度と来な
いよ。二度と来るもんか。」と吐きすてるように言った。しかし兄はそれきり駅につ
いても、プラットホームの端の暗やみの中に立って、私と話そうとはしなかった。
130 日语综合教程第七册
OD 下線部①「谷間に早くから〜光りはじめた」という情景につながる私の気持
ちを、本文中のことば3文字で答えなさい。
dB 下線部②「番小屋の戸に掲げてあるのと同じ会社名が書かれていた」は、ど
のようなことを示しているか。「〜こと」で結ぶようにして10文字程度で説
明しなさい。
dB 下線部③「私からバスケットを〜捨ててしまった」兄の気持ちに最も近いも
のを、次から一つ選んで、〇をつけなさい。
ア歩きまわっても松茸が少ししかとれなかったくやしさ
イ 妹とふたりで暗がりの道を行くやりきれないさびしさ
ウこの林へ二度と来られないことを知った心のいらだち
エ せっかくつれてきたのに不満をもつ妹への腹立たしさ
dD それまでこらえていた様子を表していることばを、本文の中から12文字以
内で、そのまま抜き出しなさい。
(iB この文章で描いているのは、次のどれにあたるか。最も適当なものを次から
一つ選んで、〇をつけなさい。
ア かんしやく持ちの兄にいじめられながら山を歩いた悲しい思い出
イ 父母に内緒で兄と松茸刈りに出かけた幼い日の辛い思い出
ウ2人でおそくまで不気味な山の中を歩きまわったいやな思い出
ェ おびえながらも松茸刈りについてきた妹に対するなつかしい思い出
dD この文章が回想しているものであることを最もよく示しているー文を、第2
段落(これ以上〜おりていった。)から抜き出し、初めと終わりの各3文字
を書きなさい。
初め: 終り:
dD 文章中の下線⑰〜(©の漢字に振り仮名をつけ、平仮名を漢字に直しなさい。
() () () ()
①(ただよっている) (迓えて) ©(松茸)
0)(かたわら)
() () () ()
ゆ墮いた) ©(半ば) (こらえていた)
(D(人気)
第7課城の崎にて131
!読み物
接待
・野Q悠紀雄
社会全体の税への無関心が腐敗許す「倫理」に頼らぬ明示的なルールを
接待は、江戸時代からの「日本文化」でしょうか。職務権限を利用した
「贈収賄」でしょうか。
大蔵官僚の汚職事件報道をピークに、接待について様々な議論がありま
した。しかし、これまで表に出ていないもうひとつの側面がある。それは、
課税の問題です。
たとえば、マンションを400万円値引きしてもらった場合、それは所得な
のか、贈与にあたるのか。
贈与なら、年間60万円まではOKですが、これを1円でも超えたら税金
を払わなければなりません。マンションの値引きも、経済的利益だからで
す。
これは職務権限の範囲とは関係ない、税制上の公平の問題です。受けた
経済的利益を、課税上、何もしないわけにはゆかない 。それを受けた当人
が'「社会的儀礼の範囲」という言葉で片づけようとするのはまったくおか
しい。税金に「社会的儀礼」などありません。最低限、贈与になるはずで
すから、これは申告して税金を払わねばならない。
接待は贈与だから課税しろなんて、本当にくだらない話です。だが、こ
こで何を問題にしたいかというと、日本社会が税金に無関心であるという
ことです。
いまの日本の経済システムの大部分は、1940年頃に導入され国家総動員
体制の産物です。
高度成長期は、税のことを考えずに生産活動に邁進することが良かった。
しかし、接待などの政治や官僚腐敗に関する議論が深まらないのは、40年
体制に端を発して、いまなお続く、税に対する愚民化政策の結果です。源
泉徴収や給与所得控除のおかげで、自分で申告しなくてよいから、問題意
識を持つ機会がない。
132日语综合教程第七册
無関係でない接待と税
アメリカの連邦規則では接待のルールが厳しいといいますが 、これは税
金の話と無関係ではない。「1回20ドル以上の接待や贈答を禁じる」という
ようなルール以前に、接待が課税所得としてみなされるような、きっちり
としたルールがある。普通のサラリーマンでも自分で申告するから、かな
り関心が強いのです。それを単に「接待の日米文化論」で比較するのは、まっ
たく筋が違う。
本来からいえば、過剰接待は、組織内の相互チェックによって抑制され
るべきものです。
私が大蔵省の証券局にいたころも、接待の話は全く聞かないわけではあ
りませんでした。ただ当時は、受けるほうに「ヤバイ」という、いわばプ
口の防衛意識がありました。「神楽坂から出勤している」などといわれてい
る人もいましたが、その人に対しても、誰かが注意してやらなくては、と
いう空気があった。
いまの状況を見ていると、そうした空気はなくなったのかと思いますね 。
この「ヤバイ」という意識が弱くなっている。そういう自己防衛のノウハ
ウが伝達されていなかったとしたら問題ですね。
「接待」とは、しかるべき地位の人にしかるべき場所に招かれ 、職務の話
をすること。その場所がたとえば料亭だった。それがパリでクレージーホー
ス見ながらなんて、申し開きができない。ノーパンしやぶしやぶで、しか
もそこに名刺を置いてくるなど、言語道断です。
役人は、課長になるまでは猛烈に働かされます。夜io時に終わった会議
で出た話の資料を作るのに、会議のあとで「あまり急がなくてもよいから 、
今日中」などという命令が下る。無理とわかっていても、それに応えよう
とする。
そこまで猛烈に働くのは 、出世したいということももちろんですが 、そ
れと共に「あの人に評価されたい」という思いがあるんですね。選ばれた
人々が、狭い世界の中でのみ共通する独特の価値観を作り上げていた。ガー
ドが緩くなったのは、バブルを経て、この感覚がなくなったからだと思い
ます。
許容範囲の目安が必要
そのようなグループ内の相互チェックが効かなくなってしまったいま 、
「倫理」など持ち出しても無意味でしょう。明示的なルールに頼るしか方法
はない。問題は、いかなるルールかです。
•経団連の豊田章一郎前会長が「接待するなら個人の金でやれ」といった
第7課城の崎にて133
そうですが、ジョークならともかく、会社の仕事をやるのに個人で負担し
ろ、なんてとんでもない。
あるいは、「公務員倫理法」といった議論もあります。しかし、これが制
定されると、チェックや手続きなどを行うセクションの力を強くしてしま
い、公務員はまったく身動きがとれなくなる。
そうなると、残るのは最初に述べた税のルールではないでしょうか。こ
れを「どこまで許されるか」の目安として使うこともできます 。これは「ノー
ブレスオブリージ」など昔話になった組織が、それでもある程度の自由度
を持って仕事を進めるための 、一つの方法論でもあるのです 。
『AERA』(1998年4月20日号)による
筆者紹介
野口悠紀雄(のぐちゅきお)
1940年12月、東京生まれ。1963年、東京大学工学部卒業。1964年、大蔵省入省。1972年、エー
ル大学経済学博士号を取得。一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、スタン
フォード大学客員教授などを経て、2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。
注釈
〇 国家総動員体制(こっかそうどういんたいせい) 国家总动员体制
1946年に廃止された国家総動員法にもとづいて実施された戦時体制のこと。戦争などの国家的危
機に際し、国力を最も有効に発揮できるように、人的・物的資源を全面的に国防目的のために動
員する体制。 所得税单
❷ 源泉徴収(げんせんちょうしゅう)
源泉徴収とは、給料など一部の所得について、支払いをする者が支払いの際に所得税相当額を天
引きし、一定の期日までに国(税務署)に納める方法をいう。課税対象から、直接、前払的に税の
徴収を図る所得税に用いられる制度。源泉徴収制度により、課税が確実かつ簡便になり、また納
税者にとっても納税がしやすくなるとされている。
❸ 給与所得控除(きゅうよしょとくこうじょ) 所得税应扣除部分
所得税の計算において、給与収入から差し引くことができる金額のこと。事業収入や不動産収入
力、らは収入を得るために必要とされた経費(必要経費)を差し引くことができるが、給与収入から
はごく一部の例外を除いて必要経費を差し引くことができない。その代わりとして、給与収入か
ら給与所得控除を差し引くことができるものとされている。そのような意味で、給与所得控除は、
サラリーマンにとっての必要経費であると言われることがある。
❹神楽坂(かぐらざか)
東京都新宿区東部の地名。第二次大戦前までは花街(かがい)として知られた。
0 クレージーホース(crazy horse) (法国)疯马夜总会
パリにある「裸の芸術(nude of the art) Jと称されるストリップショーの劇場。ダンサー、衣装、
134 日语综合教程第七册
照明、装飾などがしやれて洗練されており、芸術的評価が高い。
❻ノーパンしゃぶしゃぶ 无内裤火锅店
風俗営業のしやぶしやぶの店のことを指す。そこで働く女性の店員が下着をつけず、エプロンを
かけたままの状態でお客の前に出るのが特徴。
〇 経団連(けいだんれん) 日本经济团体联合会
重要な政治•経済問題などについて財界の意見をまとめて、政府・国会に建議することを目的に、
1946年に設立された各種経済団体の連絡機関。2002年に、日本経営者団体連盟と統合して日本経
済団体連合会となった。
❽ ノーブレス・オブリージ(noblesse oblige)(フランス語) 地位高则责任重,贵人应有的品德
高い地位に伴う道徳的・精神的義務のこと。
第7課城の崎にて 135
案内者
[本文.................
■寺田案産
どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこという決まったあてがな
い。そういう時に旅行案内記のたぐいをあけてみると、あるいは海浜、ある
いは山あいの湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざまあ
りすぎるほどある。そこでまず仮に温泉なら温泉と決めて、温泉の部を少し
詳しく見てゆくと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡などのだいた
いがざっとわかる。しかしもう少し詳しく具体的のことが知りたくなって、
今度は温泉専門の案内書を捜し出して読んでみる。そうするとまずぼんやり
とおおよその見当がついてくるが、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみた
ところで、結局本当のところは、自分で行ってみなければわかるはずはない。
もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいれば、わざわざ出
かける必要はないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞
いてみても、人によってかなり言うことが違っていて、だれのオーソリティ
を信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後には 、
っまりいいかげんに、賽でも投げると同じような偶然な機縁によって目的の
地をどうにか決めるほかはない。 •■
こういうやり方はいわばアカデミックなオーソドックスなやり方であると
言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすれば
めったに大きな失望やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。そうして主
要な名所旧跡をうっかり見落とす気遣いもない 。
しかしこれと違ったやり方もないではない。例えば旅行がしたくなると同
時に最初から賽をふって行く所を決めてしまう。あるいは偶然に読んだ詩編
か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。そうして案
内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で
自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策
や困難を引き起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りなが
136 日语综合教程第七册
ら知らずに見逃してしまったりするのはありがちなことである。これは危険
の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人に薦めるこ
とのできかねるやり方である。
しかし、前の安全な方法にも短所はある 。読んだ案内書や聞いた人の話が 、
いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳を覆う。それ
がためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身はいわば行李の中にでも押
し込められたような形になり 、結局案内記や話した人が湯に入ったり見物し
たり享楽したりすると同じようなことになる、こういうふうになりたがる恐
れがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろ
んそれでよい。
しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考える人もある。まがり
なりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自
分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなけ
れば何にもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話
を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る
ことを恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るもの
を見落としがちである代わりに、いかなる案内記にも書いてないいいものを
掘り出す機会がある。
私が昔2、3人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある1人
は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細
に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛
筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の
前にみんなを呼び集め、ベデカの中の1行をさしながら、「この窓から見ると
景色がいいと書いてある。」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この
見逃してならない景色を充分に観賞することができた 。
私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時
に、なんだかそこに名状のできないもの足りなさ、あるいは一種のはかなさ
とでもいったような心持ちがするのを禁ずることができなかった。なんだか
これでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような
気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私の頭の上に投げかけるよ
うに思われてきた。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全
くわからないが、窓の眺めのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択す
る自由を許してもらいたいような気もした。
ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが 、しかし
まれには最新刊のベデカにだまされることもまるでないではない。ある都の
大学を訪ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり 、名高い料理屋を捜
第8課案内者 137
しあてると貸家札が張ってあったりしたこともある。ずさんな案内記ででも
あればそういう失敗はなおさらのことである。しかし、こういう意味で完全
な案内記を求めるのは元来無理なことでなければならない。そういうものが
あると思うのが困難のもとであろう。
それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。
中学時代に初めての京都見物に行ったことがある。黒谷とか金閣寺とかい
う所へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分や什物の品々の来歴などをい
ちいち説明してくれる。その一種特’別な節をつけた口調も田舎者の私には珍
しかったが、それよりも、その説明がいかにも機械的で、言っている事柄に
対する情緒の反応が全くなくて、説明者が単に決まっただけの声を出す器械
かなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議に感ぜられた。その時に
見た宝物やふすまの絵などはもうたいがいきれいに忘れてしまっているが 、
その時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありあり
と残っている。
その時に一つ困ったことは、私が例えばある器物か絵かに特別の興味を感
じて、それをもう少し詳しくゆっくり見たいと思っても、案内者はすべての
品物に平等な時間を割り当てて進行して行くのだから、うっかりしていると
その間にずんずん先へ行ってしまって、その間に私はたくさんの見るべきも
のを見逃してしまわなければならないことになる。それはかまわないつもり
でいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいもの
についての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しいことをしたという
気の起こるのは免れ難かった。
学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、いろいろの点で旅
行案内記や、名所の案内者から得る知識に似たところがある。
もし学校のようなありがたい施設がなくて、そしてただ全くの独学で現代
文化の蔵している広大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするので
あったら、その困難はどんなものであろうか。始めから終わりまで道に迷い
どおしに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もっか
ずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。
しかし学校教育の必要といったようなこ.とを今更新しくここで考え論じて
みようというのではない。ただ学校教育を受けるということが、ちょうど案
内者に手を引かれて歩くとよく似ているということをもう少し立ち入って考
えてみたいだけである。
案内記が詳密で正確であればあるほど 、これに対する信頼の念が厚ければ
厚いほど、我々は安心して岐路に迷うことなしに最小限の時間と労力を費や
138日语综合教程第七册