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Published by johntss124, 2021-06-21 19:15:07

日语综合教程8

日语综合教程8

い。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分らな
い子供の癖に、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それをあ
えてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸な国民と云わなければならな
い。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっ
と気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行
きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際し
なければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際す
れば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があ
の人は肉刺の持ちょうも知らないとか 、小刀の持ちょうも心得ないとか何とか
云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より
強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似をさせて主客の位地を
易えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。し
かも自然天然に発展してきた風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西
洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醍酵して醸された礼式
でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の
' 一端とも云えないほどの些細な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々
のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日
本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。無論ーから十
まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなけ
れば悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑り
と評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではな
い。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云う
のです。

それでは子供が背に負われて大人といっしょに歩くような真似をやめて、じみ
ちに発展の順序を尽して進む事はどうしてもできまいかという相談が出るかも知
れない。そういう御相談が出れば私も無い事もないと御答をする。が西洋で百年
かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも

空虚の譏を免かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろ
うとすればこれまた由々しき結果に陥るのであります。百年の経験を十年で上滑
りもせずやりとげようとするならば年限が十分ーに縮まるだけわが活力は十倍に
増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易く首肯するところであ
る。これは学問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説など
を生嚙りにして法螺を吹くのは論外として、本当に自分が研究を積んで甲の説か
ら乙の説に移りまた乙から丙に進んで、毫も流行を追うの陋態なく、またことさ
らに新奇を銜うの虚栄心なく、全く自然の順序階級を内発的に経て、しかも彼ら
西洋人が百年もかかってようやく到着し得た分化の極端に、我々が維新後四五十
年の教育の力で達したと仮定する。体力脳カ共に吾らよりも旺盛な西洋人が百年
の歳月を費したものを、いかに先駆の困難を勘定に入れないにしたところでわず

140日语综合教程第八册

かその半に足らぬ歳月で明々地に通過し了るとしたならば吾人はこの驚くべき知
識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息
奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果としてまさに起るべき現象で
ありましょう。現に少し落ちついて考えてみると、大学の教授を十年間一生懸命
にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹りがちじやないでしょうか。ピンピン
しているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神
経衰弱に罹る方が当り前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分りや
すいためで、理窟は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。

すでに開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜として吾々の受
くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配
を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前御
話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って
吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また
滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒
と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の
結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うの
ではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的
の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょ
う。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえって
ァア知らない方がよかったと思う事が時々あります。モーパサンの小説に、或男
が内縁の妻に厭気がさしたところから、置手紙か何かして、妻を置き去りにした
まま友人の家へ行って隠れていたという話があります 。すると女の方では大変
怒ってとうとう男の所在を捜し当てて怒鳴り込みましたので男は手切金を出して
手を切る談判を始めると、女はその金を床の上に叩きつけて、こんなものが欲し
いので来たのではない、もし本当にあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしま
う、そこにある(三階か四階の)窓から飛下りて死んでしまうと言った。男は平気
な顔を装ってどうぞと云わぬばかりに女を窓の方へ誘う所作をした。すると女は
いきなり馳けて行って窓から飛下りた。死にはしなかったが生れもっかぬ不具に
なってしまいました。男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普
通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したも
のと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委ねたというのが
モーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減な程度で留めておけばこれほど
の大事には至らなかったかも知れないが、そうすれば彼の懐疑は一生徹底的に解
ける日は来なかったでしょう。またここまで押してみれば女の真心が明かになる
にはなるが、取返しのつかない残酷な結果に陥った後から回顧して見れば、やは
り真実懸価のない実相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずにおきたかつ
たでありましょう。日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ
研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の

第7課 新しいパラダイムを求めて 141

方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところ
だとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるので
あります。外国人に対して乃公の国には富士山があるというような馬鹿は今日は
あまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に
聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではど
うしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何も
ない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行く
が好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。苦い真実
を臆面なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとい一時間たりとも不快の
念を与えたのは重々御詫を申し上げますが、また私の述べ来ったところもまた相
当の論拠と応分の思索の結果から出た生真面目の意見であるという点にも御同情
になって悪いところは大目に見ていただきたいのであります。

『夏目漱石全集10』(ちくま文庫1988)による

I注釈

〇 夏目漱石(なつめそうせき)(1867—1916)
小説家、英文学者。東京都生まれ。本名は金之助。1905(明治三八)年、風刺的、実験的な小説『吾
輩は猫である』を発表。続けて『坊っちゃん』などを書き、作家としての地位を築いた。作品に
『三四郎』『それから』『門』の三部作、『こころ』『明暗』などがある。

❷現代日本の開化
この文章は1911(明治四四)年8月に行なわれた講演をもとにしたものである。

❸ パラドックス(paradox)
逆説。

❹敷島
当時あった紙巻き煙草の名前。

❸エジプト煙草
エジプトから輸入された上質の煙草。

@三韓
ここでは、新羅、百済、高句麗の総称。

〇明々地に
非常にはっきりしたままに。

©戦争
日露戦争。

142 日语综合教程第八册

a

第」U:ぎ課

文化と理解

本文

I

最近、異文化を理解するなどという言い方をよく目にします。いろいろな
文化があることは楽しいことですが 、異文化理解という言い方には、違って
いるものを理解しなければいけない、食べにくいものを飲みくださなければ
いけない、という感じがまとわりついているように思います。「異」という字
は、最初から違っている、異なっているということで、少々不気味な感じさ
えするので、この場合「異」という字はあまりょくないのではないかとかね
がね思っています。

私たちはだれでもある特定の文化の中で生まれて育つので、ほかの文化と
出会ったときには、本当に違うと思い知らされます。そのときの感覚は、さ
まざまな文化があることは良いことだ、というものばかりではなく、ある種
の違和感も含まれているように思われます。それは、多少反発の気持ちもわ
くような違和感ですが、実はそのようにして異なる文化に出会うまでは、自
分の文化にも気づかないということがあるのです 。

だいぶ前のことですが、ある雑誌の正月号のお雑煮の特集で、高知とか京
都とか福島とか、さまざまな地方のお雑煮が出ていました。そしてその何号
かあとに、「この前の雑煮特集号を見ました 。」という、次のような「読者か
らの便り」が載っていました。

N県出身の友達のA子に、「あなたのところのお雑煮はなに?」と聞きまし
た。すると、A子は「いえ、私のところは普通の雑煮。」「だからどういうの?」
「ごく普通の。あのウサギの肉が入っているやつ。」「……OJ

このようなことは、たとえば違う地方の人が結婚したりしても起こります。
片方は、たとえば、すきやきを醤油と砂糖だけで味付けをする 。もう一方は、
薄い下地の汁を使って比較的スープ状にもっていく。そうするとお互いにー
つの鍋で違ったすきやきをつくろうとし合い、一向にすきやきができません。

第8課文化と理解143

実は私は醤油と砂糖のほうなので、先ほどの「スープ状」という言い方に、す
でに私の偏見が表れているのです 。

さて、異なる文化を知ること、たとえばフランス文学を学ぶとか、または
バリ島の民俗舞踊を考察するとかいった 、知る形での文化の理解というのは、
私たちの努力に正比例してどんどん増すだろうと思います。また、この意味
での異文化理解は非常に奨励されています。少し単純化すると、この場合の
「知る」というのはいわば語学の習得のようなもので、努力でなんとかできる
ものです。それは反省的に、そして意識的にとらえられる異なる文化です 。

しかし、そういう形ではなくて、生きるという形の文化の理解のしかたが
あるのではないでしょうか。たとえば、私たちは生まれたときからその生き
方を親や周りの人から教わりながら、日本文化というものを生きています。
それはポルトガル語やロシア語を学校で学ぶといった学び方ではありません 。
文法を学び、単語を覚え、それに基づいて文をつくるというのではなくて、周
りの人との細かなやりとりの中で、失敗したらその次に直していくというや
り方です。これは「学んでいる」というより、むしろ「生きている」という
言葉のほうがぴったりするようなやり方といえるでしょう。

ポルトガル語を知るといった形での文化の理解ではなく、それを生きると
いうのは、つまりそこにある価値観を信じ、文化が持っている枠組みを無意
識の中で自分のものにしていくことです。私たちは六法全書を読みながら暮
らしているわけではないのに、大体こういうことをしなければ法律に触れず
に生きていくことができるということはわかっています。それは文化の中に
ある約束事という形でいくつかの価値とかいくつかの特殊な事例を教えられ
て、それを自分の中で組み合わせて、大体これでよかろうということで生き
ているのです。そして、失敗すると周りの人から細かな注意をされて、修正
しながらその文化を理解していく 。それは無意識的で、あまり反省してとら
え返したりはしません。そして、そうやって生きて身につけた文化というの

は、しばしばもうそれしかないと思えるような文化になります。先程のA子

さんという人は、お雑煮にはウサギの肉を入れる、それ以外ありえないと
思っているわけですが、こういうことは私たちの身の回りでもよく起こるこ
となのです。

n

人間がなにか集団をつくったり、なにか活動を行っている、そこに集団で
あるとか活動の複合体みたいなものが見いだされるとき、それを大きく二つ
に分けて、境界や外側がはっきりしている囲い込みモデルと、もう一つは中
心がはっきりしていて、そこから放射的に影響が広がっていくという放射モ

144 日语综合教程第八册

デル、と私が呼ぶのですが、そういった二つのモデルを考えてみます。そし
て、文化というものの存在のしかたを、たとえば、社会というものの存在の
しかたと比べ合わせて考えようと思います。社会というものは、比較的自立
したムラのような集団から、われわれが所属している現在の国家に至るまで、
彼はどこどこに属しており、私はここの者である、というメンバーシップが
定まっています。そして、分かりやすい形で国境であるとか、村境であると
か、そういった地理的な境界も決まっているわけです 。

しかし、文化はそうではありません。私はおそらく日本文化の中で生きて
いると思いますが、そのことをメンバーシップのような形で証明されたこと
はありません。にもかかわらず、自分としては日本文化に「所属」している
ような感じがしています。外国で生まれて外国の国籍を持っている人でも、
日本に長くいることで、日本文化の内•にいるという感覚を持っている人はい
るでしょう。つまり、文化というのはだれが入ってもいい。もともと入ると
か入らないとかいうものではないのです。文化には理念的な中心があって、
そこから影響という形で広がっていきます。その広がりは理論的にはどこま
でも広がっていくわけで、アメリカで豆腐を食べながら金魚を飼って、お風
呂に入っている人がいてもいい。それぐらいでは日本文化の内にいるとはい
えないでしょうが、日本文化の影響を受けていることにはなります。そして
それが高じて日本文化の理念的な価値を信じ、その行動の規範と枠組みが自
分の中で意識しないものになっているという人にとっては 、日本文化が自分
の生きている文化ということになるでしょう 。

さて、フランス文化や日本文化というような文化を考えたとき、その外側
はどうなっているのでしょうか。ヨーロッパをずっと旅行していくと、国境
を越えれば、国としては突然フランスからドイツになりますが、鉄道で旅行
している場合、その前にもさまざまな変化が車窓から見られます。地中海の
ほうからフランスを横切って、たとえば、アルザスというところを渡ってド
イツに入っていくと、人の感じとか服装の感じでも、ベレー帽が減るとか、つ
けているアクセサリーが変わるとか、それから家の屋根の形が変わるとか、
風景が変わるとか、畑のわきに植えてある樹本の種類やその剪定の方法が変
わるなど、すべてのものが次第次第に変わってきます。それは決して自然が
変わるということだけではなくて、人間が作り出すもの、すなわち文化が変
わっていくのです。そして、それは国境を渡る前から起こっているのです 。

国境は確かに線でつくられていて、それは囲い込みという機能をもってい
ます。しかし、文化のほうはその外側では重なり合っているのです。お雑煮
のことにそれほど詳しいわけではありませんが、関東は四角のお餅で、西の
ほうに行くと、どこかで丸いお餅にだんだん変わっていくのでしょう。丸い
お餅と四角いお餅と両方やっているというところはないと思いますが 、その

第8課文化と理解145

境界線は地理上でかなり揺れているはずです。お餅の形だけでなく、汁がお
すましか、または白みそかという違いもあるでしょうから、たとえ丸餅と四
角の餅という線が引けたとしても、今度はおすましと白みその線がどこかに
あるわけです。お雑煮の中にも多分五から十以上の要素があると思いますの
で、全体では実に微妙な差異があるわけで、主要なスタイルは数種類にまと
められても、その影響圏は常に重なり合っていると考えられます。お雑煮は
お正月料理という文化的な要素の一部分であり 、われわれの日本文化からす
ればほんのささいな部分でしょうが、そのような小さなところを取り上げて
も、このような細かな違いが重なり合って存在しているのです。

このように、文化あるいは一つの文化要素というのは 、その影響・分布の
外縁に行くと、他の文化、文化要素と重なり合っています。もし文化がこの
ような在りようをもっていて、そして重なり合っている部分でお互いに影響
を与え合っているとしたならば、異なる文化を理解するということは、そう
いった文化の重なり合いのところで、われわれがさまざまな文化を生きたり
影響を受けたりするということになります。さまざまな文化の中心から影響
を受けている、あるいは自分が中心にいるという場合もあるかもしれません
が、そういった文化の状況を生きるということが、文化を理解する上で重要
であると思います。

m

文化相対主義という言葉がありますが、これは、いろいろな文化の間に
どっちが良いという上下の差はない、どんなに奇妙に見えようとも、それは
それでその人間にとって重要な文化である、文化は相対的に存在しているの
であって、絶対的にある方式が普遍的であったり、どちらかがどちらかの上
になっていたり、というような存在のしかたはしていない、という考え方で
す。これに基づいて、日本文化だけがすぐれていると思ってはいけない、外
国に行ったならば日本の企業のやり方だけが唯一だと思ってはいけない、そ
の国におけるやり方を学んで、いいところは取り入れてやっていくべきであ
る、そういったことはたくさん語られているようです。お互い違う文化は理
解していこう、文化はお互いに相対的なものなのだから、どちらが優であっ
てどちらが劣であるというような考えは捨てて、互いに違いを納得していこ
う、というこのような立場をとるのは大切なことだと思います。

しかし、他の文化を認めるという言い方が、その文化との重なり合いを否
定した上でその差異を鮮明なものとして認め、同時に自分たちの中の文化の
細かな差異は認めない、という考え方を含んでいることがあります。また、私
たちはほかの文化を認めることをしなければいけないと言いながら、一方で、

146日语综合教程第八册

やはり自分たちの文化を自慢したいという気持ちをもっています。お互いの
文化の間に優劣はないというものわかりのいい態度をするのは簡単ですが、
しかし、そういうことで自分たちの文化を生きることが本当にできるでしょ
うか。自分たちの文化がたくさんある文化の中の一つであるということを認
識しつつ、しかし自分たちの文化に対する誇りとか 「自慢」する気持ちも同
時に持たなくてはなりません。このことは文化相対主義に反するように思え
るかもしれませんが、むしろこういった考え方や活動が文化相対主義を保証
し、成り立たせるのです。

ある二つの文化、たとえば日本の文化と外国の文化を、お互い違う文化で
あるが両方とも認めようとすることは、同時に、われわれの文化、日本文化
を一つの文化として想定していることなのです。日本文化といったように一
つの文化を想定すると、文化の内側の差異がなくなってきてしまいます。ま
たそう考えることは、内側の差異をなくすことです。これは、逆に外側との
違いを大きくすることです。単に外の文化を違うものとして認めるというこ
とは、お互いに共存していく非常にものわかりのいい態度のようですが 、実
は内側の差異をなくすことによってできてしまった外側との差異、自分たち
でつくってしまった差異を認めていることでしかないともいえます 。逆にも
し、私たちが内側でさまざまな文化の差異を認めていくと 、むしろ外との重
なり合いの部分が出てくるはずです。日本文化の中で、たとえば太平洋の文
化と重なる部分や朝鮮半島の文化と重なる部分をなくしていけばいくほど、
それらの文化との差異は大きくなりますが、逆にそれを保持していけば、外
との共通性は残ってきます。内部での差異をつくるということは、外との共
通性をむしろ増すことになります。文化相対主義の悪い形は、実は内部での
差異を少なくして外部との差を際立たせて 、つくりあげてしまった差異を認
めようとするものです。文化というものをそういう形で切り取ったとしたら 、
われわれはかなり無理なことをしていることになるのではないでしょうか。
ですから、もし文化相対主義というものがよく機能するとしたら、文化相対
主義ともう一つ、文化絶対主義というと変ですが、お国自慢は文化の元気で
あるというような、それぞれの文化の内側にある差異のユニークさと自立性
を認めるという立場があって、その二つの立場が相まって初めて文化という
ものに活力とバランスが出てくるわけです。そのようにして重なり合いが生
まれて、そこで他の文化を理解するという行為が出てくるのです。そういう
二つがバランスを保っていれば、おそらく文化というのはなだらかに変化し
ていくだろうと思います。全世界が一つの文化になるというようなことはな
くて、さまざまな文化が常に生まれては影響され合って、また別の文化に変
わっていく。文化と文化の間の差異は衝突して対立を引き起こすのではなく 、
違う要素がそこで溶け合うか、まざり合いながら共存するか、または片方が

第8課文化と理解 147

片方を覆っていくか、さまざまな形で常に変化していくという姿をもつはず
なのです〇

そうすると、異文化の間の理解というのは、そのように常に文化と文化が
相互に関係し合っている状態の中で、共通性を生みだしていく動ぎでもあり、
違いを生みだそうという動きでもあって、その二つは同時に進行していると
いえます。その中では決してモノと情報が移動するだけではなくて 、常に違
う文化が流れ込んでいるある人間と、他の人間との重なり合いが起きていま
す。文化の理解とは、いわばそのような重なり合いにおける違いの中を生き
ることです。現在の日本の状況において、異文化を理解する努力というのは 、
異なる文化をもつ人との重なり合いの部分を広げていくということになりま
す。ただそれは、人と人とが重なり合って触れ合っていくわけですから 、な
まやさしいことではありません 。比喩的にいえば、お互いに傷つけ合って、血
が出るようなことが起きるような大変な問題でもあるでしょう。しかし、日
本の中でも北から南までさまざまな文化の差異があって、そのさまざまな違
いがお雑煮のお国自慢にもなってあらわれているわけです。この現在の状況
をあまり肩肘を張らずに、すでに日本の文化の内部で私たちはさまざまな多
くの差異をもっているということを思い返しながら、他の私たちとは全く異
なると思われるような文化も、これこれこうだと理解するのではなくて、そ
れを生きるという形で少しずつ重なり合ってやっていくことができるのでは
ないかと思います。

『東京大学公開講座46異文化への理解』(1988)による

言注釈

〇 船曳 建夫(ふねびき たけお)(1948—)
文化人類学者。東京都生まれ。著書に『知の技法』(編著)などがある。

❷高知
四国地方の南部の県。面積7104平方キロメートル。人口 82万4千。全9市。

❸バリ島(Bali)
イントネシア、ジャワ島の東に隣接する小火山島。古典舞踊やガムラン音楽で有名。

❹六法全書
日本国憲法、民法、刑法などの六大法典をはじめ、各種法令を収録した書物。

❺アルザス(Alsace)
フランス北東部、ライン川左岸の地方。ドイツとの国境地帯。

148 日语综合教程第八册

k新しい言葉

お雑煮(おぞうに) [名] 餅(もち)に具をあしらった汁物。地方により具

はさまざまで、仕立ても澄まし汁•味噌汁といろ

いろ。主として正月の祝い膳に用いる。

メンバーシップ [名] 団体の構成員であること。また、その地位・資格。

(membership) つばのない、大黒頭巾に似た帽子。フランスでは
ベレー帽(ベレーぼう) [名丁

多く農夫がかぶる。

剪定(せんてい) [名•他サ変] 果樹の生育を調整したり、庭木の形をととのえ

るために枝の一部を切り取ること。

おすまし [名] ①気どること。また、その人。②(「お清汁」とも

書く)すまし汁。

白みそ(しろみそ) [名] 黄白色の味噌。米麹(こめこうじ)を多く用い、甘

味に富む。京都産が有名。西京味噌など。

奇妙(きみょう) [形動] ①珍しいこと。説明できないような不思議なこ

と。②普通とは変ってすぐれていたり、面白みの

あること。また、そのさま。

肩肘を張る(かたひじを [慣] 威張るさま、また、堅苦しいさまにいう。

はる)

言葉と表現 j

7 一向に〜ない________________________________

「一向に」は陳述副詞。「一向に〜ない」の形で、「全然〜ない」という意味を
表し、否定の意味を強調する。あることが起こるのを期待して何かをし続けて
いるにもかかわらず、それが起こりそうにないという状況で用いられ、それに
対する苛立ちや不審感などの気持ちを伴う。かたい表現。

❶ そうするとお互いに一つの鍋で違ったすきやきをつくろうとし合い、一向に
すきやきができません。

❷30分待ったが、彼はいっこうに現われない°
❸薬を飲んでいるが、熱はいっこうに下がる気配がないC
❹ 何度も手紙を出しているのに、彼女はいっこうに返事をよこさない。
❺ラジオは刻々に颱風の接近を伝えていたが、一向にその気配はなかった。

第8課文化と理解149

aいわば—…一———… ............ーーーー—ーーーー—…..……….…i

「いわば」は副詞。「言ってみれば」「たとえていうならば」の意味。あること
を分かりやすく説明するために、比喩的に例示するのに用いる。一般的にイ
メージしやすいよく知られたものやことがらを表す名詞や動詞が用いられる。

❶ 文化の理解とは、いわばそのような重なり合いにおける違いの中を生きるこ
とです。

❷ そんな商売に手を出すなんて、いわばお金をどぶに捨てるようなものだ。
❸ 彼女の家は石造りの洋館で、いわばドイツのお城のようなつくりだった。
❹ その顔は申し分のない忠実さで、私の滑稽な焦躁感をそのままに真似、いわ

® の怖ろしい鏡のようになっていた。

g学習の手引き

❶ 本文に取り上げられている、文化におけるさまざまな差異について整理してみよう。
❷ 次の1)-3)について、それぞれの言葉の意味の違いをまとめてみよう。

1) 「知る形での文化の理解」ー「生きるという形の文化の理解」
2) 「囲い込みモデル」一「放射モデル」
3) 「文化相対主義」一「文化絶対主義」
❸文化を理解するとはどういうことか、筆者の主張をまとめてみよう。

練習

ー、本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
1.異なる文化に出会ったとき、「多少反発の気持ちもわくような違和感」を抱いて
しまうのは、なぜだと考えられるか。
2雑誌記事の「お雑煮」のエピソードのおもしろさについて説明し、これを引用
した筆者の意図を考えよう。
3. 「先ほどの『スープ状』という言い方に、すでに私の偏見が表れているのです。」
とあるが、このように言えるのはなぜか。
4. 筆者は異文化の理解において、「知る形」での理解を、どのように評価している
と考えられるか。
5. 生きて身につけた文化というものが「しばしばもうそれしかないと思える」よ
うなものになってしまうのは、なぜか。
6. 「こういうことは私たちの身の回りでもよく起こることなのです 。」とあるが、

150日语综合教程第八册

「こういうこと」とは、どのようなことカ、。
/フランスからドイツへアルザス経由で旅行する例は、何を言いたいためのもの

か。
8. 「そういった文化の状況を生きるということが、文化を理解する上で重要である」

とあるが、「そういった文化の状況」とは、どのようなことか、なぜだと考えら
れるか。
9. 「このような立場(文化相対主義)をとるのは大切なことだ」とあるが、それは
なぜだと考えられるか。
10. 「このことは文化相対主義に反する」とあるが、どのような点で「反する」の
か。
11. 文化相対主義の立場に立ちつつも、筆者が安易な文化相対主義に批判的なのは
なぜか。
12. 「むしろこういった考え方や活動が文化相対主義を保証し、成り立たせる」のは、
なぜか。
13. 「われわれはかなり無理なことをしていることになる」とあるが、このように言
えるのはなぜか。
14. ここで言う「文化絶対主義」とは、どういう立場を言うのか。またそれは「文
化相対主義」とどう関係するか。

二、次の日本語を中国語に訳しなさい。

1.人間がなにか集団をつくったり、なにか活動を行っている、そこに集団である

とか活動の複合体みたいなものが見いだされるとき、それを大きく二つに分け

て、境界や外側がはっきりしている囲い込みモデルと 、もう一つは中心がはつ

きりしていて、そこから放射的に影響が広がっていくという放射モデル、と私

が呼ぶのですが、そういった二つのモデルを考えてみます。そして、文化とい

うものの存在のしかたを、たとえば、社会というものの存在のしかたと比べ合

わせて考えようと思います。

2文化相対主義という言葉がありますが、これは、いろいろな文化の間にどっち
が良いという上下の差はない、どんなに奇妙に見えようとも、それはそれでそ

の人間にとって重要な文化である、文化は相対的に存在しているのであって、絶

対的にある方式が普遍的であったり、どちらかがどちらかの上になっていたり、

というような存在のしかたはしていない、という考え方です。 <

3.しかし、他の文化を認めるという言い方が、その文化との重なり合いを否定し

た上でその差異を鮮明なものとして認め、同時に自分たちの中の文化の細かな

差異は認めない、という考え方を含んでいることがあります。また、私たちは

ほかの文化を認めることをしなければいけないと言いながら、一方で、やはり

自分たちの文化を自慢したいという気持ちをもっています。お互いの文化の間

に優劣はないというものわかりのいい態度をするのは簡単ですが、しかし、そ

第8課文化と理解!51

ういうことで自分たちの文化を生きることが本当にできるでしょうか。

三、次の文章を読んで、後の問に答えなさい。
ある日本文化研究家の話を聞いたことがありますが、その人は日本語にはダーリ

ングという愛称はない、自分の妻や恋人を呼ぶとき、ダーリングとは言わない。ど
うして言わないかというと、こういう伝統や歴史があり、こういう考え方や感じ方
があるから、ダーリングのような言葉が存在する筈はないと言うのです。しかし、
こんなことを言われると、普通の西洋人は①q思い込んでしまうでしょう。どう
して日本人がダーリングという言葉を使わないかはよくわかりますが、同時に日本
の男性は女性に対して冷たいのではないかと考えてしまいます。つまり、その研究
家は②事実のー側面しか紹介してくれなかったと言うことになります。また、言語
学的に③一つの間違いを犯していると思いますC

私から見ると、日本語にはダーリングという言葉は存在するし、よく使われてい
ると思います。そういう愛称はどういう日本語に相当するかと言えば、それは「君」
です、「お前」です、そして、「おい」です。時には「馬鹿野郎」という言葉です。
こういう言葉とダーリングという言葉は、言葉こそ違いますが、感情とか気持とか
は(④)です。

(⑤)、一部の比較研究者は日本の歴史とか、伝統とか、考え方とか、一つの
側面だけ取り上げて、それに色々な理屈、時には屁理屈をつけて、都合のいい説明
だけしかしないのです。

例えば、感覚の違いということがよく言われていますが、私は感覚の違いという
ものを初めの段階では否定しました。普通の日本語の学び方には一つの根本的な間
違いがあるように思われます。それは、あまりにも文化の違いとか、歴史の違いと
か、伝統の違いとか、感覚の違いとか、そういうものに(⑥)ということです。
教師たちは、日本語を覚えるのに、まず日本の文化をよく理解しなければならな
い、日本人の感覚をよく理解しなければならないと言いますが、私は(⑦)の
ことを主張しています。私は、感覚の違いとか、文化の違いとか、そういうものを
重視しすぎると、日本語を覚えることは、例の学者が言ったように、絶対不可能に
なってしまうと思います。言語を覚えるということは、頭の問題だけではなくて、
心の問題でもあるからです。もし私が初めからエキゾティシズムに⑧かられて、面
白い日本語、変な日本語、非論理的な日本語、非文法的な日本語にばかり興味を
持っていたら、日本語で物を書くことは出来なかったと思います。

(MB ①の「こう」とはどんなことか。
A, 日本語にはダーリングという愛称はない。
B, どうして日本人がダーリングという言葉を使わないかはよくわかるが、

同時に日本の男性は女性に対して冷たいのではないか。
C, ダーリングと言わない伝統や歴史があり、そういう考え方や感じ方もあ

152日语综合教程第八册

る〇

dB D,ダーリングのような言葉が存在する筈はない。
②にふさわしい言い回しはどれか 。

A. ーを聞いて十を知る B,氷山の一角

C・頭隠して尻隠さず D,人は見かけによらぬもの

IffiB ③は具体的にどんな間違いか 。
A, ダーリングに相当する言葉がないために、日本の男性は女性に対して冷

たいのではないかと考えてしまう間違い
B, 文化の違いや歴史の違いばかり強調しすぎるために犯す間違い
c.頭の問題ばかりに固執し、心の問題をおろそかにしているために起きる

間違い
D,ダーリングに1対1で対応する日本語を求めすぎているために犯す間違



(SB (④)にはどんなことばを入れればいいか。

A,主観的 B, 一般的 C.普遍的 D,補助的

嫡局(⑤)にはどんなことばが入ると思われるか。

A,ところが B,だから C,それで D,または

dD (⑥)にはどんなことばが入ると思われるか。

A,接し過ぎている B,こだわり過ぎている

C, 関わり過ぎている D.面し過ぎている

(1D (⑦)にはどんなことばが入ると思われるか。

A,同様の B.類似の C.正反対の D,相応の

dB⑧「かられて」の漢字は次のどれか。

A・駆る B,刈る C.狩る D・借る

d❷ 本文の内容と合っていないものはどれか。

A, 文化の違いや伝統の違いばかり強調しすぎると、日本語は覚えられなく
なってしまう。

B, 言葉を覚えるには頭の問題よりも心の問題が重視されなければならない。
c,日本語にダーリングという言葉が存在しないからといって、日本の男性一

が女性に対して冷たいわけではない。
D, 日本語にはダーリングという言葉は存在しないし、それに相当する言葉

第8課文化と理解153

も見つからない。

・問10 作者の言いたいことはどれか。
A, 自分が初めからエキゾティシズムにかられて、日本語で物を書くことが
できなかった。
B, 日本語は変で、非論理的で、非文法的な言葉だ。
c,日本語を覚えるのに、まず日本人の感覚、日本文化を理解すべきだ。
D・言語の勉強は、頭だけの問題でなく、心の問題でもある。

g読み物

出たがりと引つ込み

•崗部照一

人間には大きく分けて二つのタイプがあるように思われる。一つは、他者を押
しのけてまで自らを目立たせようとする出たがりのタイプであり、あと一つは自
分の存在を他者の陰に隠してしまう引つ込みのタイプである。一方は押しの一手
で突進する型で、他方はいわば引きの姿勢で後ずさりする型の人間である。

出たがり屋が目立つのは、対称性と平等性に裏打ちされた個人志向の価値前提
を信奉する「私」の文化である。独立独歩の「一匹狼」が幅を利かす文化でもあ
る。反対に引つ込み屋が優勢なのは、他者との調和を重視する補完性に立脚した
集団志向の文化価値が尊重される「わたしたち」の文化である。一匹狼というよ
りはむしろグループ-プレーヤーが大事にされる。

出たがりであるか引つ込みであるかは、それぞれの文化のメンバーが自己をど
のように見るかで決まる。アメリカ人と付き合っていると、彼らが自己を人間関
係の中心点、行動の準拠点と見なし、自らの行動をいつも他者に先駆けて行おう
とする気質が旺盛であることに驚かされる。自己を外に向けて拡大、拡張しよう
とする傾向が強い。これに対して日本人は、他者との人間関係の中に自己を埋没
させて、あまり公的に自分を表出させないことに美学を感じる国民のようだ。自
己をどの程度外に向かって出すか、あるいは自己を内に隠して外に出さないか
は、文化によって違いがある。

自己の公的性、私的性と異文化コミュニケーションとのかかわりに最初に注目
したのは、D二バーンランドというアメリカのコミュニケーション学者である。
彼は「公的自己」と「私的自己」という二つの鍵概念を提示して、自己を他者に

154日语综合教程第八册

開示する程度には文化によって違いがあると仮定して、日本人とアメリカ人を調
査対象にして実証的な研究をした。

バーンランドは次のように仮定した。対人コミュニケーションの参加者の一方
が自己のうちで他方に開示してもよいような部分を公的自己の領域、自己のうち
で他者に開示するかどうかは自己の置かれた状況、雰囲気、ムードによって決ま
るような隠された部分を私的自己の領域、それに双方が意識していない部分の自
己を無意識領域とそれぞれ定義して、コミュニケーションの状況により各人はこ
れらの領域を他者へどの程度開示するかを決めると言う。

アメリカ人は公的自己に価値付けしているために 、コミュニケーションでは
自己を外に出して徹底的に相手に迫っていく傾向が強いのではないかと、バー
ンランドは仮定している。これとは対照的に、日本文化では私的性に高い価値
が置かれているので、コミュニケーションでは公的自己を抑えてなるべく自分
を外へ出さないように、他者とのよい人間関係を維持しようと努めていると言
う。

公的自己を全面的に押し出す出たがりタイプのアメリカ人と 、私的自己を重視
する引つ込み型の日本人とでは、そのコミュニケーション形式でどのような違い
があるだろうか。まず、アメリカ人はコミュニケーションの相手をえり好みせ
ず、だれとでも、かつ数多くの人と気楽に付き合う傾向が強い。見ず知らずの人
でも、あまり気にせずにコミュニケーションができる。また、相手がだれである
かによって、コミュニケーション形式を変えるようなことはせずに、常に形のー
貫性を保っている。これに対して日本人は相手のえり好みが強く、見知らぬ人と
は心を開いてコミュニケーションをしたがらない。知った人とのコミュニケー
ションに限定しておけば、自己開示をして公的自己を出さなければならないよう
な危険性から、身を守ることができるからである。

出たがり屋は、儀式とか規則に縛られない自由なコミュニケーションを好む。
形式にのっとったコミュニケーションは、自己を外に開示する妨げになるものと
の見方が強いからである。反対に引つ込みタイプの人は自由な形式のコミュニ
ケーションが苦手で、規貝0、形式にのっとった儀式性の強いコミュニケーション
のほうが、心に落ち着きを与えてくれるようだ。対人関係で公式性という蓑に隠
れれば、自己を他者に明かす程度を抑えることができるのである。

アメリカ人はいろいろなトピックについて個人的な見解、感情をもろに相手に
ぶつける傾向が強い。これとは対照的に、日本人は個人的な感情、意見をスト
レートに相手に出すようなことはせずに、没個性的なコメントに終始して、自己
の内面をなるべく相手に表出しないように配慮している。会話の素材としては、
自分の内面のことよりはむしろ自分の外にある「外的事項」を取り上げて、なる
べく自己が公的に出ないようにガードを固くしている。

非言語動作の使い方にも、出たがりタイプと引つ込みタイプとでは違いがあ
る。公的自己を開示する出たがりのアメリカ人は、言語とともに非言語チャンネ

第8課文化と理解 155

ルも駆使して自己を相手にさらけ出す傾向が強い。体を強烈に動かし、大きな
ジェスチャーを使って、時には相手への身体的な接触をも試みて、,自己をアピー
ルする。これとは対照的に、喜怒哀楽を出さないことが文化的な美徳だと、小さ
いころから教え込まれてきた引つ込みタイプの日本人には、対人コミュニケー
ショ ンで非言語を通してあまり感情を出さないことが良しとされている。能面的
な表情が日本人の典型である。多様なチャンネルにあまり頼らないでいれば、そ
れだけ自己を外に開示せずに済むのでは、との意識がどこかで働いているからで
ある。

最後に、コミュニケーションで相手から存在を脅かされた場合、その対応の
仕方にも興味ある対照が見られる。アメリカ人は相手から言葉で挑戦されれば、
言葉でもって積極的に対応するように小さいときから教えられている 。徹底的
に言葉で返し、自分の公的自己を相手に知らせることによって 、最後には互い
が理解し合い、脅威が解消するものだと考えている。言葉の脅しには言葉で
もって返すという言語習慣である。これに対して日本人の場合は、相手から言
葉で挑戦されると、言葉で反撃するというよりは自己の内に引つ込んで、防御
的になる傾向が強い。「長いものには巻かれろ」式のメンタリティーが支配的で
ある。

現在のような異文化化の時代では、出たがり一方の性格では異なる文化背景の
人からは出しゃばりだと思われかねないし、反対に引つ込みはそういう性格だか
ら仕方がないといって、内にこもってばかりいれば、内気過ぎると言われかねな
い。やはり公的自己と私的自己のバランスをどこかで取って、異文化コミュニ
ケーションに対応しなければならないのが時代の要請である 。

『異文化を読む』(1988)刊による

k注釈

❶ 岡部 朗ー(おかべ ろういち)(1941—)
言語学者。愛知県の生まれ。話し言葉によるコミュニケーションを専門とし、異文化間のコミュ
ニケーションに考察を加えている。著書に『スピーチークリティシズムの研究』『異文化コミュニ
ケーション』(ともに共著)などがある。

❷対称性
本文では個人と個人とがお互いに独立していること。

❸補完性
本文ではお互いが依存し合っていて、独立していないこと。

❹ グループ-プレーヤー(group-player)
集団の一員として、その集団の目的に沿って事を行なう人々。

156 日语综合教程第八册

学習の手引き

〇筆者は日本人について、「他者との人間関係の中に自己を埋没させて、余り公的に自
分を表出させないことに美学を感じる」と言っているが、そのことについてどのよ
うに思うか、話し合ってみよう。

❷「自己を他者に開示する」ことにおいて、D =バーンランドを引いて筆者は日本人と
アメリカ人とでどのような違いがあると言っているか、まとめてみよう。

❸ 日本人とアメリカ人とでは「コミュニケーション形式でどのような違いがある」の
か、本文に沿ってまとめてみよう。

〇「異文化コミュニケーションに対応しなければならないのが時代の要請である」と言
う筆者の提言について、日ごろ自分が感じていることを800字程度にまとめてみよ
う。

第8課文化と理解 157

古典

一古典の文章に親しむ

あした浜辺をさまよえば
昔のことぞしのばるる
風の音よ雲のさまよ
寄する波もかいの色も

ゆうべ浜辺をもとおれば①

昔の人ぞしのばるる

寄する波よかえす波よ

月の色も 星のかげも

これは②、今でも多くの人々に親しまれている「浜辺の歌」という歌曲です。林
古渓③という詩人の作品で、長く小学唱歌④として歌いつづけられてきました。作
詞された当時(大正7年)は、「さまよえば」は「さまよへば」と、「かい」は「かひ」
と書かれていました。

古く、平安時代の中ごろの仮名の用い方は、当時の発音を表したものであったと
思われます。ところが、時代が下るにつれて 、いくつかの発音に変化が生じ 、仮名
との間にずれができてしまったのです。それでも、現代仮名遣い⑤が行われるよう
になるまでは、歴史的仮名遣い⑥が、仮名を用いて書き表す場合の原則とされてき
ました。

さて、古文には、現代文と比べて、さらにいくつかの違いが認められます。その
一つは、活用語の語形に違いがあるということです 。現代の「しのばれる」が「し
のばるる」であったり、「寄せる」が「寄する」であったりするのです。そのよう
な点から見て、「浜辺の歌」は、古い時代の文章のきまり、つまり、古文の文法に
従って書き表された作品だと言うことができます。

次に注目したい、’古文特有の文法に、係り結びという現象があります。現代で
も、文末に用いられる「ぞ」という助詞が、古い時代の文章においては、むしろ文
中に用いられることが多く、そのような助詞があるとき、文末の活用語はきまって

158日语综合教程第八册

連体形で結ばれたのです。「浜辺の歌」の中の「昔のことぞしのばるる」が、それ
に当たります。もし「ぞ」という助詞がなければ、「しのばる」となって、「る」と
いう終止形で言い切られるはずのところが 、ここでは「るる」という連体形で結ば
れています。「浜辺の歌」は、この点でも、古文の文法に従っていたのです 。

幸い、この歌曲の中には、まったく知らないという単語はひとつもないといって
よいでしょう。しかし、冒頭の「あした」は、「明日」の意味ではなく、「朝」とい
う意味です。長い時代の中で、このように、同じ単語でも、意味に違いを生じて現
在に至っているものもあるのです。

古文というと、何か、取りつきにくい、遠い昔の文章のように思われがちです
が、決してそうではありません。古文に準じた文章が、このように、意外にも身近
なところにあって、気づかないうちに接してきているのです。そして、そのような
ことに気づくことが、古文に親しむきっかけともなりましょう 。日本には、実に多
くの古典が、広い分野にわたって、読み継がれてきています。古典の和歌を口ずさ
み、古典の随筆に思索を深め、古典の物語に陶酔の一時を過ごしたいと思います。

『新国語1』(旺文社)による

I注釈

〇もとおれば
歩きまわると必ず。

❷これは
上掲の出典の『新国語I』は、縦書きのため、文章の冒頭に「右は」とあって、「これは」ではな
い。

❸ 林古渓(1875—1947)
歌人・漢詩人・国漢文学者。

❹小学唱歌
現在の小学校の前身である、尋常小学校の教科の一つで、現在の音楽に相当する。1941(昭和一
六)年に廃止された。

❺現代仮名遣い
1946(昭和ニー)年11月16日の内閣告示によって公布された仮名遣い。現代の文章を書き表すた
めに、歴史的仮名遣いを現代語の発音に基づいた仮名遣いに近づけることを目ざした。1986(昭
和六一)年に、一部改定されたが、全体としてはほぼ従前どおりである。

❻歴史的仮名遣い
古典に標準をおいた仮名遣い。一般に、平安時代中期の仮名の用い方によっている。

第9課古典 159

k学習の手引きと練習

❶「浜辺の歌」の中の次の単語は、歴史的仮名遣いではどう書かれるか。古語辞典でし

らべてみよう。.

1)もとおれば 2)ゆうべ 3)かえす

❷「浜辺の歌」の中の、古典語としての次の単語は、どのような意味で用いられている

か。古語辞典で調べてみよう。

1)あした 2)ゆうべ 3)かげ

〇次の慣用的な言い方の中で、現代とは活用に違いのある単語はどれか。抜き出して、

現代の活用と比較してみよう。

1) 初心忘るべからず

2) 一将功成りて万骨枯る

3) 天高く馬肥ゆる秋

4) 青は藍より出でて藍より青し

二物語

竹取物語〈なよ竹のかぐや姫〉

今は昔①、竹取のおきな②といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろ
づのことに使ひけり。名をば、さかきの 造③となむいひける。その竹の中に、も
と光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを
見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。おきな言ふやう、「われ朝
ごとタごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子となりたまふべきひとなめり。」
とて、手にうち入れて、家へ持ちて来ぬ。妻のおむな④に預けて養はす。うつくし
きこと限りなし。いと幼ければ、籠(こ)に入れて養ふ。

I注釈

❶今は昔
古い物語や説話の書き出しに使われる決まり文句。

❷おきな

老年の男。

❸さかきの造
「さかき」は氏の名前。「造」は、もともとは朝廷に仕える者の呼称。

0おむな

老女。

160日语综合教程第八册

I蓮釈

今では、もう昔のことになるが、竹取の翁という者がいたのである。その翁は山野に
分け入っていつも竹を取り、その竹を種々の物を作るのに使っていたのである。ところ
で、ある日のこと、翁がいつも取っている竹の中に、なんと、根元が光る竹が一本あっ
たのである。ふしぎに思って、そばに寄ってみると、三寸ばかりの人が、たいそ・うかわ
いらしい姿でそこにいる。翁がいうことには、「わしが毎朝毎晩見る竹の中にいらっ
しやったご縁で、あなたを知りました。私の子になる運命の人のようですよ」といって、
掌に入れて、家へ持って帰った。妻の嫗にまかせて育てさせる。そのかわいらしいこと、
この上もない。たいそう幼いので、籠の中に入れて育てる。

『竹取物語』について

古くは「竹取の翁の物語」「かぐや姫の物語」などと呼ばれた。作者は不明で、成立も
あきらかでないが、9世紀末から10世紀初頭にかけて成ったらしい。

物語の構成は大きく三部に分けられる。
(1) 竹取の翁が竹の中から三寸ぐらいの美しい女の子をみつけた。その後、翁は黄金
の入った竹をしばしば見つけて富豪となる。そして女の子はたちまち成長し、かぐや姫
と命名された。
(2) かぐや姫に多くの求婚者が集まる。そのうち五人の貴公子には求婚の条件として
難題が提示される。五人の求婚者は難題を解決しようとするが、すべて失敗した。かぐ
や姫は帝の求婚にさえ応じなかった。

(3) かぐや姫は実は月の世界の天人で、中秋の満月の夜に昇天した。

源氏物語〈桐壺〉 紫式部

いづれの御時にか①、女御②、更衣③あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむ
ごとなき際にはあらぬが④、すぐれて時めき⑤たまふありけり。はじめより我はと思
ひ上がりたまへる御方がた、めざましきもの⑥におとしめ嫉みたまふ 。同じほど⑦、
それより下臆の更衣たちは、ましてやすからず⑧。

[注釈

〇いづれの御時にか
どの帝の御治世であったか。

❷女御
中宮(皇后)に次ぐ天皇の夫人。摂関大臣以下、公卿の娘がなる。その女御から中宮が一人決めら
れる。

第9課古典 161

❸更衣
女御に次ぐ天皇の夫人。

❹いとやむごとなき際にはあらぬが
たいして重々しい身分ではない方で。「が」は同格の格助詞。

❺時めき
「時めく」。帝寵を得て栄える。

❻めざましきもの
目障りな無礼者。帝寵を独占している更衣への、女御たちの気持ち。

〇同じほど
更衣と同じ身分の人。

❽ましてやすからず
なおさら心穏やかでない。

I通釈

どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に 、
最上の貴族出身ではないが深いご寵愛を得ている人があった。最初から自分こそはとい
う自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な
女として妬まれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬
の炎を燃やさないわけもなかった。

『源氏物語』と紫式部について

『源氏物語』は11世紀初頭に成立。
この物語は五十四帖からなる長編物語であり、四一帖までは光源氏のはなやかな生
涯を写したものである。次の三帖は源氏の君の死後のことや、その子薫の生い立ちのこ
となどを述べ、最後の十帖は宇治十帖といわれ、主として薫の失意の半生を描いた。
作者は紫式部である。式部は夫の藤原宣孝に死別してから、一条天皇の中宮上東門院
彰子に仕え、はじめは藤式部といわれた。

平家物語〈祇園精舎〉

祇園精舎の鐘の声①、諸行無常②の響きあり。娑羅双樹の花の色③、盛者必衰の理
をあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には
ほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、
梁の朱异、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の 政 にもしたがはず、楽しみをきはめ、
諫をも思ひ入れず、天下のみだれむ事をさとらずして 、民間の愁ふる所を知らざり
しかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに……

162日语综合教程第八册

r注釈

❶祇園精舎の鐘の声
釈迦が説法したインドの寺。そこの無常堂の四隅の鐘が、収容されていた病僧の臨終の時、自然
に鳴って、諸行無常と響いたという。

❷諸行無常
万物は時々刻々に生滅変転して定まることがない、の意。

❸娑羅双樹の花の色
釈迦の入滅(死)の時、その床の四方にニ株ずつ計八株あった娑羅が、すべて白色に変じ、合して
二樹となり仏をおおったという。

祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きを立てる。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の道
理をあらわす。驕っている人も久しくはない。ただ春の夜の夢のようにはかないもので
ある。勇猛な者も結局は滅びてしまう。遠く外国の例を尋ねるならば、秦の趙高、漢の
王莽、梁の朱异、唐の禄山、これらの人々は皆、旧主先皇の政治にも従わず、楽しみを
極め、人の諫言を聞き入れることなく、天下が乱れようとすることも悟らず、民間の憂
い苦しんでいることも知らなかったので、たちまち滅び去ってしまった者どもである。

『平家物語』について

中世の軍記物語。成立年代は未詳であるが、原形は承 久(1211〜1222)ごろまでに成
立したと考えられる。はじめは三巻であったらしいが、琵琶法師によって「平曲」とし
て語られる中で増補され、六巻・十二巻•四十八巻(源平盛衰記)などの諸本が成立した。
作者も明らかではない。

新しい時代の担い手となる武士の姿が躍動的に描かれ、王朝的世界から武家的世界へ
移る時代相が鮮やかにとらえられている。平氏が台頭してから、源平の争乱を経て、滅
亡にいたるまでの過程を、韻律に富む文章で描いている。

三随筆

枕草子 〈春はあけぼの〉(第一段) 清少納言

春はあけぼの①。やうやうしろくなりゆく山ぎは②すこし明かりて、紫だちたる③
雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。ま
た、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

第9課古典 163

秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに④、からすの寝どころへ行
くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて⑤、雁などの連
ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、
はたいふべきにあらず⑥。

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず 。霜のいと白きも、またさら
でも⑦いと寒きに、火などいそぎおこして、炭持て⑧渡るもいとつきづきし。昼に
なりて、ぬるくゆるびもてゆけば⑨、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

k注釈

〇春はあけぼの
春は、ほのぼのと明け行くころこそすばらしい。

❷山ぎは

山に接している空の部分。 ・
❸紫だちたる

紫を帯びている。

❹ 山の端いと近うなりたるに
夕日が山の端にたいへん近くなっているころに。「山の端」は空に接している山の部分。

❺まいて

まして
❻はたいふべきにあらず

またいうまでもない。
❼さらでも

そうでなくても
〇持て

持って
❸ぬるくゆるびもてゆけば

寒さがだんだんゆるみ、暖かくなって行くと

I通釈

春は夜明け方(が趣がある)。しだいに白んでいく山際が、すこし明るくなって、そこ

に紫がかっている雲が細くたなびいている(のはすばらしい)。 .

夏は夜(だ)。月のある時分(のおもしろいことは)いうまでもない。闇夜の時分でもや

はり、ほたるがたくさん入り乱れて飛んでいる(けしきもおもしろい)。また、ただ一つ

二つなど、かすかに光って飛んで行くのもおもしろい。雨などが降るのも趣がある。

秋は夕暮れ(がよい)。夕日がさして、山の端すれすれに落ちかかったころ、烏がねぐ

らに帰ろうとして、三羽四羽、また二羽三羽というように急いで飛んで行くのさえも、し

みじみとした趣がある。まして、雁などの列をなしているのが、たいそう小さく見える

164 日语综合教程第八册

のはまことにおもしろい。日がすっかり沈んでしまってから、風の音や虫の音などが聞
こえてくるのは、これまたいうまでもなく(趣の深いものだ)。

冬は早朝(に限る)。雪の降っているのはいうまでもなく、霜がたいそう白い朝も、ま
たそうでなくてもたいそう寒い朝に、火などを急いでおこして、炭火を持って運んでい
く情景も、いかにも冬らしくてよいものでした。昼になって、寒さがだんだんゆるんで
いくと、火鉢の火も白い灰のほうが多くなって感心しない。

『枕草子』と清少納言について

随筆。作者は清少納言。長保二(1000)年ごろ執筆されたと見られる。『源氏物語』とと
もに平安文学の双璧といわれる。

『枕草子』は約三百段の長短さまざまな文章より成り、その内容もまちまちであるが、
おおまっかに三つに分けることができる。単語•短句•短章よりなる物尽くしの部分と、
比較的長文よりなる逸話または物語ともいうべき部分と 、自然描写の部分とである。

この中で『枕草子』の特徴を最もよく出しているのは、第一の物尽くしの部分である。
これは「里は」「花は」「寺は」「すさまじきもの」「なまめかしきもの」というような見
出しで、筆者の鋭敏な観察眼に映じたものを、ぼつぼっと書き並べている。だれでも知っ
ていて気がつかぬこと、気がついても言いあらわせないことを、きわめて簡潔に述べて
おり、筆者の鋭い機鋒が遺憾なく現われている。

清少納言は清原深養父を曾祖父に、清原元輔を父にもち、文学的環境にはぐくまれた
人であるが、歌才には恵まれず、散文の方面に才能を発揮した。

方丈記 〈行く川の流れ〉 鴨長明

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみ①に浮かぶうたか
た②は、かつ消えかつ結びて③、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖④
と、またかくの如し。たましきの⑤都⑥のうちに、棟を並べ薑を争へる、高きいやし
き人⑦の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、
昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住
む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が
中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、タに生まるるならひ⑧、ただ水の泡
にぞ似たりける。

k注釈

❶よどみ
流水の停滞している所。

第9課古典165

❷うたかた
水面に浮く泡。

〇かつ消えかつ結びて
一方では消え、一方では生じて。

❹栖
住居。

❺たましきの(玉敷きの)
玉を敷いたような。

❻都
平安京。今の京都の地。

〇高きいやしき人
地位の高い人と低い人。

0ならひ(習ひ)

ならわし。

I通釈

川の流れは絶えることなく、流れ続けている。しかし、目の前の水は先ほどの水では
ない。流れの淀んだ所に浮かぶ水の泡も、消えたりできたりして、いつまでもそのまま
でいることはない。世の中に生きている人と、その住居のありさまも、やはり、これと
同じことである。はなやかな都の中に屋根を並べ、高さを競っている、身分の高い人や
低い人の住居は、何代たっても絶えることなく並んでいるものであるが、ほんとにそう
かと一々あたって調べてみると、昔からあったという家は稀である。あるものは、去年
焼けて今年立て直したものである。あるものは、大きな家がなくなって小さな家となっ
ている。住んでいる人もまたこれと同様である。場所も変わらず同じで、そこに住んで
いる人も相変わらず大勢いるが、昔会ったことがある人は、二、三十人のうち、わずか
一大か二人だけである。朝死ぬ人があるかと思えば、夕方生れる子がある。この世の常
のならわしは、まったく水の泡とそっくりである。

『方丈記』と鴨長明について

随筆。建暦二(1212)年成立。作者は鴨長明。前半では、壮年時までに体験したさまざ
まな天変地異を生々しい迫力で語り、現世の無常を詠嘆するもの。後半は自己の生涯や
家系を回顧しながら、現在の草庵での生活のさまを記す。無常を主情的に詠嘆する傾向
が強く、不安の時代に生きた人間の普通的な心情が語られている。文章は流麗かつ簡潔
な和漢混交文である。

鴨長明(11557 — 1216)は鎌倉時代、京都下賀茂神社の神官の家に生まれた。五十歳で
突然出家した。和歌•管弦にも秀でていた。

166日语综合教程第八册

徒然草 〈をりふしの移り変はるこそ〉(第十九段) 吉田兼好

をりふし①の移り変はるこそ、’ものごとにあはれなれ。

「もののあはれは秋こそまされ。」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、

いまひときは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の声なども、ことの

外に春めきて、のどやかなる日影に垣根の草萌えいづる頃より 、やや春深くかすみ

わたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ②、をりしも雨風うち続きて、心あ

わただしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花

たちばなは名にこそ負へれ③、なほ、梅のにほひにぞ、いにしへのことも立ち返り、

やまぶき ふぢ

恋しう思ひいでらるる。山吹の清げに、藤のおぼっかなきさましたる、すべて思ひ

すてがたきこと多し。

七注釈

❶をりふし
季節。

❷気色だつほどこそあれ
咲きそうになるちょうどそのころ。

❸花たちばなは名にこそ負へれ
たちばなの花は有名だが。

I通釈

季節の移り変わるのは、何ごとにつけても趣の深いものだ。
「しみじみとして趣の深いのは、秋が一番まさっている」と、誰でもいうようだが、そ
れもなるほど一応はもっともなこととして、もう一段と心が浮きたつのは春の景色であ
るようだ。鳥の声なども殊の外に春めいて、のんびりとした日の光を受けて、垣根の草
が芽を吹く頃から、漸く春が深まって霞みわたり、花もどうやら咲きかけようとする折
も折、ちょうど雨風が続いて、気ぜわしくなく散ってしまう。引き続いて青葉の時節に
なっていくまで、何ごとにつけても、心を悩ませるばかりだ。橘の花は、昔を偲ぶとい
う評判をとっているが、しかしやはり、梅の香による方が、昔のことも立ち返って、恋
しく思い出されるものである。山吹の花の美しく咲き、藤の花のなよなよとあぶなつか
しい様子でさいているなど、何もかも、思い棄てにくい趣が多い。

『徒然草』と吉田兼好について(第七冊第10課参照)

『徒然草』は鎌倉時代の末ごろに吉田兼好の書いた随筆である 。吉田兼好は俗名を卜

第9課古典 167

部兼好といい社務職の家に生まれ後二条天皇に仕えた公家で 、三十歳ごろ出家した。歌
人としてもすぐれ、有職故実や歌学にも造詣が深く、仏教はもちろん儒教にも通じてい
たらしい。そういう多面的な彼が閑居にあって自由に思う所を書いたのが『徒然草』で
ある。序段のほか二百四十三段、その説く所は多種多様である。古典趣味、王朝憧憬の
耽美的傾向が著しい章段があり、有職故実に関する断章も少なくない。隠遁生活を勧め
たり仏教の大事を説いたりしているが、同時に様々な日常の処世訓を掲げ、時には例話
をもって巧みに生活上の注意を与えるというように、はなはだ現実的であり、すぐれた
教養の書というべきである 。その所説は前後矛盾するように感ぜられる場合もあるが 、
概して合理的解釈を重んじており、健全な常識家としてのかれの面目がよく出ている 。
「枕草子」と並んで随筆文学の双璧とされているが、両者を比較することによって 、二
つの時代の文学の差異を見ることもできるであろう。

!読み物

古代の和歌

万葉集

和歌は、日本の文学の流れの中で、古くから中心的な位置を占めてきた。奈良時代ま
での和歌を集大成したのが『万葉集』で、それ以前の記紀歌謡に比べて、歌の形式も整
い、個性的な叙情の表出が行なわれるようになった。そこには、古代の人々の真実な感
動が率直に力強く歌い上げられ、時代を越えてわれわれの心に訴えるものがある。

『万葉集』は、およそ四百五十年間の歌約四千五百首を二十巻に収めている。編者・成
立年代は明らかではないが、大伴家持などの手を経て、奈良時代末期にはほぼ全巻が完
成したらしい。作者は天皇•貴族から庶民に至るまで国民各層に及び、また地域的にも
広く東西各地にわたっている。表記には漢字の音訓がさまざまにくふうして用いられた。
歌風は、初期の素朴剛健なものから、時代を追うにつれ繊細優美なものへと推移してい
くが、やがてそれは平安時代の『古今和歌集』に受け継がれて、知的な心を優雅な調べ
に乗せてよむ風を生み、さらに鎌倉時代の『新古今和歌集』に至って、奥深い心を陰影
豊かに歌い上げるようになった。

有間皇子の、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首(巻二)
磐白の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば またかへり見む

168日语综合教程第八册

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
注釈
•有間皇子 舒明天皇十二年(640)-斉明天皇四年(658)〇孝徳天皇の皇子。反乱のかどで捕らえられ、

今の和歌山県藤代の坂で殺された。
•松が枝を結ぶ 草や木の枝を引き結ぶのは、無事を祈る上代人の風習。
•磐白 和歌山県日高郡南部町岩代。
•笥食器。
•草枕「旅」の枕詞。

天 皇の、蒲生野に遊猟したまひしとき、額 田王の作れる歌(巻一)
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
注釈

•天皇天智天皇。第三十八代。
・蒲生野今の滋賀県蒲生郡の町。
•遊猟 山野で薬草を採集する行事。
•額田王 生年不詳「持統天皇(在位、686-679ごろ)。皇子に愛され、のち天智天皇の妃となる。
•茜さす「紫」の枕詞。
・紫野 紫草を栽培してある野。「紫草」は、その根から紫色の染料を取る。
・標野 みだりに一般の人が立ち入るのを禁じた野。

皇太子の答へませる御歌(巻一)
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
注釈
•皇太子大海人皇子。生年不詳一朱鳥元年(686)〇天智天皇の弟で、のちの天武天皇。

•われ恋ひめやも なんで私が恋をしたりしょうか。「も」は終助詞、詠嘆を表す。

反歌二首 柿本朝臣人麻呂(巻二)
石見のや 高角山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか
小竹の葉は み山もさやに さやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば
注釈

•反歌 長歌のあとにつけた短歌。ここの「反歌二首」は、「柿本朝臣人麻呂の、石見の国より妻を別
れて上り来しときの歌の一首」につけた短歌である。

•柿本朝臣人麻呂 飛鳥時代の人。持統・文武両朝に仕えた。石見の国に赴任にしたことがある。「朝
臣」は八種の姓の第二等。

•高角山 角の地にある高い山。
•さやにさやさや音をたてるほどに。

第9課古典 169

貧窮問答の歌一首 短歌あはせたり 山上憶良(巻五)

世の中を 龛しとやさしと 思ヘども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

注釈

•貧窮問答の歌一首 短歌あはせたりここでは「貧窮問答の歌」を省いて、それの後にあわせた短歌
だけあげる。

•山上憶良 斉明天皇六年(606)-天平五年。大宝元年(701)に遣唐使として入唐、帰国後筑前の守な.
どを勤めた。

・やさし身も細るようにつらい。

山部宿禰赤人の作れる歌(反歌二首)(巻六)
み吉野の 豪山のまの 木末には ここだも騒く 鳥の声かも

ぬばたまの 夜のふけぬれば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く

注釈

•山部宿禰赤人 奈良時代前期の人。下級官吏として皇室に仕えた宮廷歌人で、古来人麻呂と並び称
せられた。「宿禰」は八種の姓の第三等。

•み吉野今の奈良県吉野郡の吉野川流域一帯の地。「み」は接頭語。
•象山のま 象山、吉野山中の小峰の名。「ま」は山と山との迫っている谷間。
•ここだはなはだしく。
•ぬばたまの「夜」の枕詞。
•久木植物の名。「あかめがしわ」か。
•しば鳴く しきりに鳴く。

二十三日、興によりて作れる歌二首 大伴家持(巻十九)

春の野に 霞たなびき うらがなし この夕かげに うぐひす鳴くも

わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも

注釈

•二十三日 天平勝宝 五年(753)二月二十三日。
•大伴家持生年不詳一延暦四年(785)〇大伴旅人の子。越中の守、因幡の守、鎮守府将軍、中納言な

どを歴任した。
•いささ群竹 少しばかりの竹の茂み。

東歌(巻十四)
多麻川に さらす手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき
稲つけば かかるあが手を 今夜もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
注釈

•東歌 東国地方の民謡風の歌。
•多麻川にさらす手作り「さらさらに」を導く序詞。「多麻川」は東京の西を流れる多摩川。「手作り」

は手織りの布。

170 日语综合教程第八册

•さらさらにますます。
•かかる ひびやあかぎれで荒れる。
•殿の若子お屋敷の若君。

天平勝宝の七歳乙未の二月、相替はりて筑紫にっかはるる
諸国の防人らの歌(巻二十)

父母が 頭かきなで 幸くあれて 言ひし言葉ぜ忘れかねつる
唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来のや 母なしにして
注釈
•天平勝宝の七歳755年。

•筑紫筑前•筑後の国の古称。
•防人 東国から徴集されて九州北辺の防衛にあたった兵士。
・幸くあれて つつがなくあれよと。「あれて」は「あれと」の東国方言。
•唐衣 大陸風の衣服。防人への官給の服か。「裾」の枕詞という説もある。

旋頭歌(巻七)
水門の葦の末葉をたれか手折りしわが夫子が振る手をみむと
われぞ手折りし
注釈

•旋頭歌五七七、五七七の形式の歌。

古今和歌集

奈良時代の『万葉集』のあとをうけて、平安時代に作られた歌集に『古今和歌集』が
ある。古今和歌集は、延喜五年(905)、醍醐天皇の勅命を受けて、紀友則、紀貫之、
凡河内躬恒、壬生忠岑が撰んだ最初の勅撰集で、「よみ人知らず」とされている比較的
初期の歌、在原業平、小野小町ら六歌仙時代の歌、紀貫之ら撰者時代の歌など合わせて
やく千百首を二十巻に収めている。素材や感情の直接的な表現を避けた理知的な発想に
特色があり、その優雅流麗な調べは日本の美の伝統の重要な一面を形づくってきたとい
えよう。

春立ちける日よめる 紀貫之(巻一春)

袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ

注釈

•春立ちける日立春になった日。

•紀貫之 生年不詳一天慶八年(945)〇『土佐日記』の作者。
•袖ひぢてむすびし水 袖もぬれて手ですくった水。

第9課古典 171

題知らず よみ人知らず(巻三夏)

五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

注釈
•五月待つ五月を待って咲く。
«花橘花の咲いている橘。
•昔の人以前親しかった人。

秋立つ日よめる 藤原敏行(巻四秋)

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

注釈

•藤原敏行生年不詳一延喜七年(907)ごろ。

大和の国にまかれりけるときに、雪の降りけるを見てよめる
坂上是則(巻六冬)

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
注釈
•坂上是則 生年不詳一延長八年(930) 〇

・朝ぼらけ 夜が明けかかるころ。

唐土にて月を見てよみける 阿倍仲麻呂(巻九赣旅)

天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも

この歌は昔仲麻呂を唐土にもの習はしにつかはしたりけるに、あまたの年を経て、え

帰りもうで来ざりけるを、この国よりまた使ひまかり至りけるにたぐひて、もうで来な

むとて、いで立ちけるに、明州といふところの海べにて、かの国の人、馬のはなむけし

けり。夜になりて月のいとおもしくさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる。

注釈

•阿倍仲麻呂 文武天皇二年(698)-宝亀元年(770) 〇
•ふりさけ見れば遠く望み見ると。
•春日今の奈良市の東部の地。
«月かも 月だな。「かも」は終助詞、詠嘆を表す。
•もの習はしに 学問をさせるために。仲麻呂は、養老元年(717)遣唐使に加わって留学生として渡唐

した。
•使ひ 天平勝宝三年(751)の遣唐使藤原清河。
・たぐひて連れ立って
•明州 今の中国の浙江省寧波市付近。
•馬のはなむけ送別の宴。「はなむけ」は「鼻向け」で、昔旅立つ人を送るとき、その人の馬を行く

先に向けて安全を祈ったことからいう。

172 日语综合教程第八册

東の方へ、友とする人一人二人いざなひて行きけり。三河の国八橋とい

ふ所に至れリけるに、その川のほとりにかきつばた、いとおもしろく咲

けりけるを見て、木の陰におりゐて、かきつばたといふ五文字を句の

… 頭にすゑて、旅の心をよまむとてよめる。 在原業平(巻九羈旅)

唐衣 きつつなれにし っましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

注釈

•三河の国八橋今の愛知県知立市の東にあたる。
•かきつばたあやめ科の植物。初夏、白・紫などの花をつける。
•在原業平 天長二年(825)-元慶四年(880) 〇平城天皇の孫。六歌仙の一人。
•唐衣きつつ「なれ」の序詞。
・つましあれば妻がまあ、いるので。「つま」は「褸」ともかけていて、「唐衣」と縁語関係にある。

「し」は副助詞、強意を表す。

きちかうの花 紀友則(巻十物名)
秋近う 野はなりにけり 白露の おける草葉も 色変はりゆく

注釈

•きちかう桔梗。
•紀友則 生年不詳一延喜五年(905)ごろ。
•物名 一首の中に物の名を他の語に通わせてよみ込むこと。

題知らず よみ人知らず(巻十一恋)

ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな

注釈

•ほととぎす鳴くや「五月」を修飾。「や」は間投助詞、詠嘆を表す。
•あやめ草 菖蒲。五月五日の節句に用いる。
•あやめも知らぬ わけもわからず無我夢中の。「あやめ」は物事の筋道。

題知らず 小野小町倦十ニ恋)

うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき

注釈

•小野小町 貞観(859-877)ごろの人。六歌仙の一人。
・てふ「といふ」のっづまった形。

新古今和歌集

平安時代には、『古今和歌集』をはじめとする七つの勅撰集があいついで編集された
が、鎌倉時代にはいると、第八番めの勅撰集として『新古今和歌集』が成立した。『新古

第9課古典 173

今和歌集』は、建仁元年(1201)後鳥羽上皇の院宣を受けた源道具、藤原有家、藤原
定家、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮(成立前に没)らが撰定にあたり、撰者の時代を中心と
する秀歌約千九百八十首を二十巻に収録して、元久二年(1205)に一応の完成を見たが、
その後も改訂の手が加えられた。『古今和歌集』の優美さの上に幻想性と象徴性を添え、
洗練された感覚と技巧とによって、独特の美の世界を築き上げている。

平安時代から鎌倉時代にかけて、和歌集が盛んに編纂された背景には歌合がある。こ
れは、多くの歌人が左右に分かれ、同じ題材でよんだ歌をおのおのの一首ずつ組み合わ
せて、その優劣を競い勝負を決める一種の歌会で、いろいろな歌合から多くの和歌が『新
古今和歌集』にも採用された。また、歌合の扌比評精神は和歌に関する論説、即ち歌論を
も生み、和歌の本質・理念•法則•作法などの理論的な追求が図られた。

をのこども、詩を作りて歌に合はせはべりしに、水郷の春望といふことを
後鳥羽上皇(巻一春)

見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ
注釈

•をのこども廷臣たち。
-詩を作りて歌に合はせ 詩歌合をし。詩歌合は、漢詩と、和歌の優劣を競うもの。この詩歌合は元

久二年の元久詩歌合。
•後鳥羽上皇 治承四年(1180)-延応元年(1239)〇第八十二代の天皇。
•水無瀬川淀川に合流する川。合流点に近い大阪府三島郡島本町に後鳥羽上皇の離宮があった。

守覚法親王、五十首歌よませはべリけるに 藤原定家(巻一春)

春の夜の 夢の浮き橋 とだえして 峰にわかるる 横雲の空

注釈

•守覚法親王 後白河天皇の皇子。
・藤原定家 応保二年(1162)-仁治二年(1241)〇定家とも呼ぶ。俊成の子。
«夢の浮き橋 夢のはかなさを表す。『源氏物語』の最後の巻名による。

最勝四天王院の障子に吉野山書きたるところ 後鳥羽上皇(巻二春)
み吉野の 高嶺の桜 散りにけり 嵐も白き 春のあけぼの
注釈

•最勝四天王院今の京都市左京区にあった、後鳥羽上皇の勅願寺。

五十首歌奉りしとき 寂蓮(巻二春)

暮れてゆく 春の湊は 知らねども 霞におつる 宇治の柴舟

174 日语综合教程第八册

注釈

・寂蓮 生年不詳一建仁二年(1202)〇俗名、藤原定長。
•暮れてゆく 本歌「年ごとにもみぢ葉流す龍田川みなとや秋のとまりなるらむ」(『古今集』秋 紀貫

之)。
.春の湊 春の行きとどまる所。

•宇治 宇治川。今の京都府宇治市を流れる。 、

入道前の関白、右大臣にはべりけるとき、百首歌よませはべリける、

ほととぎすの歌 藤原俊成(巻三夏)

昔思ふ草の庵の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす

注釈

•入道前の関白藤原兼実。

•藤原俊成 永久二年(1114)-元久元年。俊成とも呼ぶ。『千載集』の撰者。
・昔思ふ……「蘭省花時錦帳下廬山 雨夜草庵中」(『白氏文集』)による。

西行法師、すすめて、百首歌よませはべりけるに 藤原定家(巻四秋)

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋 秋の夕暮れ

注釈

•見渡せば 「なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりも、ただそこはかとなう茂れる陰どもなま

めかしきに」(『源氏物語』明石)。

•苫屋菅や萱を編んだもので屋根をふいたそまつな小屋。

和歌所にて、をのこども歌よみはべりしに 、夕べの鹿といふことを
藤原家隆(巻五秋)

下紅葉かつ散る山のタ時雨ぬれてやひとり鹿の鳴くらむ
注釈
•和歌所 勅撰集の編集などをつかさどるために臨時に宮中に設けた役所。
•藤原家隆 保元三年(1158)—嘉禎三年(1237)。家隆とも呼ぶ。
•下紅葉 下枝のほうの紅葉している葉。
•かつ 一方から次第に。(時雨の降る)一方では、の意にとる説もある。

題知らず 西行(巻六冬)

寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵並べむ 冬の山里

注釈

•西行 元永元年(1118)-文治六年(1190)〇俗名、佐藤義清。家集『山家集』。

第9課古典 175

東の方にまかりけるに、よみはべりける 西行(巻十赣旅)

年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山

注釈
・年たけて…… 参考歌「春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり」(『古今集』春

よみ人知らず)。
•「年たけて」は年老いての意。
・命なりけり 命があればこそであったなあ。
•小夜の中山 今の静岡県掛川市佐夜にある坂道。歌枕。

百首歌の中に、忍ぶる恋 式子内親王(巻十一恋)
忘れては うち嘆かるる 夕べかな われのみ知りて 過ぐる月日を
注釈
•式子内親王 生年不詳一正治三年(1201)〇後白河天皇の皇女。式子とも呼ぶ。

水無瀬恋十五首歌合に、春の恋の心を としなりきやうのむすめ

俊成卿女(巻十ニ恋)

おもかげの かすめる月ぞ 宿りける 春や昔の 袖の涙に

注釈

•水無瀬恋十五首歌合建仁二年に水無瀬の後鳥羽上皇の離宮で催した歌合。

•俊成卿女 生年不詳一建長六年(1254)。俊成の孫で、その養女となった。
•おもかげの…… 本歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつは元の身にして」(『古今集』恋

在原業平)。
•かすめるここでは掛詞である。

和歌所歌合に、関路の秋風といふことを 藤原良経(巻十七雑)

人住まぬ 不破の 関屋の 板びさし 荒れにしのちは ただ秋の風

注釈

藤原良経 嘉応元年(1169)一元久三年。摂政太政大臣。
不破今の岐阜県不破郡関ヶ原町の地名。奈良時代に関所が置かれた。歌枕。

(この文章は角川書店『高等学校古文一改訂版』(1978)と『高等学校古文二改訂版』(1979)に
基づいて作ったものである。)

176 日语综合教程第八册

漠文訓読

一 訓点について

花 夜処 春 春

落 来処 眠 不 暁

知 風 聞 孟①

多 雨二 覚
啼レ
少 声鳥 暁



、注釈

❶孟浩(689 — 740)

じょう

盛唐の詩人。字は浩然。湖北省襄陽県の人。

(一) 返り点
いま、われわれは、漢詩「春眠不覚暁 処処聞啼鳥」を日本語になおして、「春
眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く」と読んだ。
これを見て分かるように、「春眠」「処処」「啼鳥」の三語はそのまま音読してい
るので、語順の問題がないが、「不覚暁」は、後ろから前ヘー字ずつ返って読んで
いる。このような場合、返って読むという印に、記号「レ」を用いる。また、「聞
啼鳥」は後ろから一字隔てて返って読む。このように一字以上を隔てて返って読む
場合には、記号「二〜一」を用いる。なお、記号「レ」を「レ(れ)点」、「ニ〜ー」
を「ー ・ニ点」といい、返って読む記号を総称して「返り点」という。
(二) 送りがな
「春眠不覚暁処処聞啼鳥」を見てわかるように、漢文には、日本語の助詞や用
言の活用語尾に当たるものがない。
そこで、漢文を日本語に翻訳して読むためには 、たとえば、「啼いて」の「テ」、
「京に」の「二」、「風雨の声」の「ノ」、「暁を」の「ヲ」、「僧は」の「ハ」のよう
に、助詞の「テ・二・ノ •ヲ•ハ」などを添える必要がある。また、「啼いて」・の
「イ」、「感ず」の「ズ」、「覚え」の「エ」、「聞く」の「ク」のように、用言の活用

第io課漢文訓読177

語尾の「イ・ズ・エ・ク」などを添えて読む。これらの助詞や用言の活用語尾にあ
たるものを総称して「送りがな」という。送りがなは原則として日本語の文語文法
の規則に従って、(縦書きの漢文の)漢字の右下にカタカナで付ける。(因みに、
「春眠」「覚エ」「聞ク」などのように、ふり仮名を付ける場合は原則として平仮名
を付ける。)

それから、次の漢詩「黄鶴楼送三孟浩然之ニ広陵一」で見るように、「三〜二〜ー」の
ように返り読みをしている。即ち、「ー一二一三」の順で、「黄鶴楼にて孟浩然の広陵
に之くを送る」と読むわけである。

また、次の漢文「矛盾」で見るように、「楚人有下鬻二楣与h矛者上」で「ニ〜可と
「下〜上」のような返り点がある。「下〜上」は「上下点」と言い、「二〜ー」を包むもの
である。即ち、「楚人(そひと)に楣と矛とを鬻ぐ者有り」と読むわけである。

なお、次の漢文「推敲」で見る「未決」のように、「未だ決せざるに」と読むわ
けであるが、ここの「未」は「いまだ〜ざる」と二回読むもので、「再読文字」と
言う。

更に、「敲字佳矣」(「推敲」)を「敲の字佳し」と読み、「以為畏狐也」(「借虎威」)
で「おもへらく、狐を畏るると」と読むわけであるが、ここの「矣」や「也」は「置
き字」と言い、読まないものである。

以上、「返り点」と「送りがな」および句読点(「、」「〇」)の三つを総称して、「訓点」
と読んでいる。

二漢詩を読む

渾嗦白家烽写恨後感M城爵暮
欲す頭書火別レ時二裁破レ
g厥搜連宀彘花畠草山羊
隨更官万三驚力濺专木河 t±
簪M短:金耳心ヲ涙ヲ深シ在玄甫

、訓読

国破れて山河あり、城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨ん
では鳥にも心を驚かす。烽火三月に連なり、家書万金に抵る。白頭搔けば更に短く、渾
ベて簪に勝へざらんと欲す。

178 日语综合教程 第八册

I..…注釈

〇 杜甫(712—770)
盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。湖北省襄陽県の人。李白と並び称せられる。

❷国破

天宝十四年(755)安禄山が長安を占領したことをさす。
❸城

長安の町。

嘴孤瘪故 貴
見レ嶂花人
長遠三西£ 鶴
江ノ影月辞ン
天碧室下レ黄 卷
際二空二揚鶴
流q』、i二搂ヲ 峰









③李 忘
白 陵



I....•注釈

❶黄鶴楼
武昌にあって揚子江(長江)に臨んでいた楼閣。

❷広陵
江蘇省江都県。揚州にある地名。

❸李白(701—762)
盛唐の詩人。字は太白、号は青蓮。甘肃省天水市の人。

❹煙花
春がすみ。

風 天天 敕

吹 蒼似 勒 敕①
ー 勒
草 蒼穹 川 歌

廬 無
見ー 名
二 氏
牛 野 籠 陰
羊 茫 山
M



ー 茫四 下野



第10課漢文訓読 179

注釈

❶勅勒歌
楽府の題名。バイカル湖の南、陰山山脈北方に住む部族の歌。「勅勒」は部族の名。

❷穹廬
遊牧民のドーム型のテント。

❸見
現と同じ。

三漢文を読む

遂ひ T 手ヲ之賦^賈・ 推
並穹 敲
轡^ 覚工作ス貞ヲ詩島

唐 衝,推爽聲睡
詩組
大敲聘禧八挙]

恐之推ヲ推ス笑

韓,③鷲僧月京K

ー匸《 、二
念”為度卜下ノ騎3
乃る次セ引キF!驢g

I.gn...読

賈島、挙に赴きて京に至り、驢に騎りて詩を賦し、「僧は推す月下の門」の句を得たり。
推を改めて敲と作さんと欲し、手を引きて推敲の勢いを作す。未だ決せざるに、覚えず
大尹韓癒に衝たる。乃ち具に言ふ。愈日はく、「敲の字佳し」と。遂に轡を並べて詩を論
ずること之を久しくす。

I.注釈

〇 賈島(779—843)
中唐の詩人。

❷未~
いまだ〜ず。再読文字。否定。

❸韓愈(768—824)
中唐の詩文家。当時、大尹(首都長安の長官)を勤めていた。

❹唐詩紀事
宋の計有功の著。唐の詩人の作品の由来や、逸話などを書いたもの。

180 日语综合教程第八册

或 あ 於お 又 莫 誉 楚
ヒる
人 レ イ 誉 二 レ 人
日ト テ 能 之 有
耄• 陥 日 下
ハ 物 矛 一 「、吾 鬻
一 也 二
弗⑤ 、ク 無二 日 」 楣
「以 も
レ ざ 之 ツ レ ③ 矛
ル テ キ 盾
ニ 不
能 あ
た 楣ヲ 子 レル
之陥
レハ

応 サ、 楣

也 如t矛也 吾「 之?
。 矛
⑥( !_〇トー、ヲ,〇卜 之 堅


、者
!Iテ
)利 糜



|…注・…釈

〇莫能〜
よく〜なし。〜することができない。可能の打消。「莫」は無と同じ。

❷也
なり。物事を指定・断定するときに使う。

❸無不〜
〜くせ〉ざるなし。〜しないことはない。二重否定。

❹何如
いかん。どうであるか。疑問。

❺弗能〜
〜あたわず。〜できない。「弗」は否定を示し、不よりも語気が強い。

❻韓非子
戦国時代末の人、韓非子の著。

為 獣見然 映観 子ノ以ッ是長ダ食コヨ碍彳虎
、 不。
畏 畏レ。 借
レ レ之故 百 二
狐 遂 レ 先我ヲ逆百我ヲBg求メ 虎
也 己 皆 与 魚鄒天理ニ母狐百 威
。 而 レ 獣
走 走 之 走 子不卜帝ノ今天・聲ヲ
戦⑦( ー
国 。 之 随 信 命 子 帝 「子 而
策 虎 乎 二 、 一 食 使 無 食
) 我 也 レ ー 二 .
。 ・ル 見 吾 。 ー

レ知 獣 〇1虎 _ レ
二ラ
以 ⑥ ツ 後二發子嗖ヲ我Z敢号ヲ
お テ

も 為


、‘

第10課漢文訓読 181

!注釈

❶・無敢〜
あへて〜なかれ。決してするな。強い否定。禁止。

❷使AB
AをしてB くせ〉しむ。使役。

❸為不信
信ならずとなす。うそだと思う。

❹敢不〜乎
あへて〜ざらんや。どうして〜ないことがあろうか、。必ず〜する。反語。

❺以為然
以ってしかりとなす。そのとおりだと考える。

❻以為〜
おもへらく〜〈と〉。〜と思ったことには。

❼戦国策
漢の劉向の編。戦国時代の遊説の士が諸侯に述べた策略を国別に集めたもの。

読み物

日本の漢文学

ー漢文学の歴史

上代の漢詩文
早くから大陸文化の影響を強く受けたために、日本では古くから漢詩文が日本

人の手によって作られている。外国の文学形態を創作に用いて怪しまなかったの
である。詩賦の盛んになったのは近江朝廷の時だったが、その作品は壬申の乱で
おおむね滅びてしまった。奈良時代の前期に藤原宇合の「宇合集」、中期に
石上乙暦の「銜悲藻」があったというが、今は伝わらない。「万葉集」の山上憶
良その他の漢詩文および「懐風藻」の詩が、伝わっているおもなものである。憶
良の「沈痼自哀文」は、自己感懐を述べたものとしては、この時代に類を見ない
長編であり、「俗道の、仮に合ひ即ち離れ、去り易く留まり難きことを悲嘆しぶ
る詩(世の中の道が仮に合ってすぐに離れ、去りやすくとどまることができない
はかなさを嘆き悲しむ詩)」およびその序文などとともに、「懐風藻」の詩などと
違った傾向を示し、人生の苦しさや人間の無力さを嘆いている。「懐風藻」は天

182日语综合教程第八册

平勝宝三年(751)の成立で、撰者は淡海三船とも他の人とも言われているが、明
らかでない。五言(一句が五字からなる)の詩が大部分で、七言のがわずかであ
る。数は百二十編と序文にあるが、伝わった本により差がある。作者は六十四人、
天皇・皇子•王•官人•僧侶などの教養階級に限られ、風雅な酒宴や遊覧の際の
詩また詔に応ずる詩が多く、みやびを尊び、平安時代初期の漢文学隆盛のさきが
けをなすものである。宮廷や皇族の家での宴会の詩•詔による詩などが多く、し
かも漢文学的な着想や修辞から成っているので、いきおい形式的に流れ易いが、
次に掲げる大津皇子の作などは、心情をよくあらわしており、哀切人の心にしみ
るものがある。

金烏臨西舎鼓声催短命
泉路無賓主此タ離家向(「臨終」大津皇子)

中古の漢詩文
平安時代の始めは、一時和歌が衰えて漢文学が流行し、詩文の勅撰集がつぎっ

ぎに現われた。嵯峨天皇の時代には「凌雲集」と「文華秀麗集」が撰進され、
続いて淳和天皇の時代には「経国集」が撰進された。

平安時代初期の代表的な漢詩文家としては、空海(弘法大師)•小野 篁•
菅原道真などをあげることができる。空海の詩文集には、「性霊集」があり、詩
文の修辞法を論じたものに「文鏡秘府論」がある。空海は学者・詩大・宗教家
として、平安時代初期の文化に大きな光明を点じた大である。道真は「菅家文草」
を編纂して、醍醐天皇に献上した。なお大宰府に左遷中の作を集めたものに、「菅
家後草」がある。

去年今夜侍清涼秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香(菅家後章)
平安時代中期以後は和歌・国文が勃興したために、漢詩文はだんだん衰えた
が、男子の嗜みでもあったので、やはり相当に行なわれた。藤原明衡の選んだ
「本朝文粋」は、四百二十七編の詩文を集めた大がかりな著述である。平安時代
後期の漢文学者としては、大江匡房の名を記憶すべきであろう。

中世の漢文学
平安時代の中期以来、漢文学は衰退したが、鎌倉時代禅宗が伝わり中国・日本

の禅僧の往来が活発になり、宋・元の文学が移入されるに及んで、漢文学は再び
盛況を呈し、一時期を画するに至った。鎌倉時代の後期から室町時代を通じて、
五山の禅林を中心として、禅僧の間に作られたところから、これを五山文学とい
う。その始祖は元から帰化したー山一寧といわれるが 、かれの弟子から、
虎関師錬が出て、すぐれた詩文・評論を残した。南北朝末期には義堂周信・
絶海中津がおり、五山文学の最盛期を形づくった。義堂はその師の中巖円月と共

第10課漢文訓読 183

に五山文学の最高峰をなすといわれており、武家将軍の信任を得て、その文化的
精神的指導者でもあった。室町時代に入っても五山文学は盛んであったが、幕府
の保護を受け、権勢への追従を事とする傾向が強くなって、脱落していった。た
だ南北朝を中心とする禅文化、禅林文芸が、一般に浸透し、文化・文芸に深い影
響を与えていることは、見のがすことができない。

江戸時代の漢文ブームと明治維新
徳川家康は幕府統治の制度を整備するため儒学を利用した。家康は儒学者林羅

山や藤原惺窩を重用し、儒学とりわけ「朱子学」を幕府の漢学とする道を開い
た。実力による下克上の風潮を断ち切り、身分の上下関係の重視(君臣関係)を確
立するため儒学者をブレーンに置いたのである。武士の思想を改造して忠を貫く
士大夫階級化した。そして武士階級も四書五経の儒学を純正漢文で学ぶようにな
り、「武士道」という中流実務者階級が生まれた。武士階級は太平の世では官僚
機構に吸収されたのである。

江戸時代は王朝時代に次ぐ日本漢文の二番目の黄金時代であった。江戸時代の
漢文文化の特徴は、①漢文訓読の技術が一般に公開されたこと、②返り点や送
りがななどが秘伝ではなく公開されたこと、③漢籍の出版ブームが起きたこと、
③武士と町民農民上層部である中流実務者階級が漢文を学んだこと、④俳句や小
説、落語、劇などの文藝にも漢文が大きな影響を与えたこと、⑤漢文が書類作成
など実用的教養となったこと、などである。

江戸時代の漢文ブームの火付け役は五代将軍綱吉である。綱吉自身漢籍の講義
をし、文治政策を進めた結果、新井白石、室鳩巣、荻生徂彳來のような漢学者が輩
出した。江戸時代は鎖国政策を取ったが、朝鮮は12回の「朝鮮通信使」が来日
し将軍に見えた。江戸幕府の官僚は朝鮮使節と漢詩で応酬するほどの文化的教養
人となったのである。また清朝の漢籍があるルートで日本に流入し、それが出版
され広く読まれるところとなった。水戸の徳川光窗は明の亡命儒学者朱舜水を招
いて水戸学を起し藩士の教育を盛んにした。それは「大日本史」編纂となり、尊
王思想の拠点ともなった。皮肉なことに家康が起した儒学が水戸では倒幕の思想
的背景を醸成したのである。こうした武士階級の貪欲な知識欲と理解力、抽象的
思考力は優秀な幕府官僚をそだて、民間や洋学を学んだ下級武士階級に火をつけ
て、尊皇攘夷から倒幕そして明治維新、文明開化、富国強兵へと進む流れは、じ
つは江戸時代の漢文教養がもたらした成果でもあった。とくに明治維新後の西洋
文明の理解と摂取時に、漢文の術語製造能力は学問科学技術の発展に多大な貢献
をした。「金融」「投資」などの経済用語、「憲法」「民主」などの政治社会用語、
「自我」「弁証」などの哲学用語、「物理」「細胞」などの科学用語や軍事用語など
二字熟語を創作した。江戸時代から明治時代にかけて、漢文は「実学としての教
養」であった。日本の中流実務者階級にとって漢詩文は風雅な趣味だけではな

184日语综合教程第八册

く、実社会で仕事をするための教養であった。明治時代に活躍した人物には漢詩
文を巧みに操る者が多かった。伊藤博文、副島種臣、夏目漱石、森鷗外、山県有朋、
乃木希典、広瀬武夫などである。江戸時代の変体漢文である「候文」にかわって
明治以降は漢文読み下し文体が普及し「普通文」と呼ばれるようになった。福沢
諭吉「学問のすすめ」の文体も漢文調である。法律、勅語などの公文書も全て漢
文訓読調であった。しかし大正時代になると言文一致の口語体の文章が普及して
漢文は衰退した。

二日本の漢詩

大津皇子「臨終」(上代)
持統天皇の陰謀による大津皇子の刑死は飛鳥朝の悲劇としてよく知られてい

る。この詩は大津皇子の辞世として有名な絶句である。皇子は日本書紀に「詩賦
の興ること、大津に始まる」と云われているが、歌人としても秀でていて辞世の
和歌は「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」。

金烏臨西舎 金烏(きんう)西舎に臨み
鼓声催短命 鼓声短命を催(うなが)す
泉路無賓主 泉路賓主無し
此タ離家向 此の夕べ家を離れて向かう

菅原道真「九月十日」(中古)

平安朝最高の詩人、または最高の学者として後の世から見られている。和漢朗

詠集には孫の菅原文時に次いで多く採られている。この詩は、藤原時平の陰謀で

右大臣から太宰権帥に左遷され、太宰府で幽閉状態にある時、一年前の後朝の宴

を思い起して詠んだ絶句である。

去年今夜侍清涼 去年の今夜 清涼に侍す

秋思詩編独断腸 秋思の詩編 独り断腸

恩賜御衣今在此 恩賜の御衣 今此に在り

棒持毎日拝余香 棒持(Iまうじ)して毎日 余香を拝す

細川頼之「海南偶作」(中世)

室町時代の詩人。頼之は足利尊氏に従って武功があり、義満のとき管領となる

が、政争に嫌気が差して出彖引退して讃岐へ帰る。これはその時の作であろう。

人生五十愧無功 人生五十功無きを愧ず

花木春過夏已空 花木(かぼく)春過ぎて夏已に空し

満室蒼蝇掃不去 満室の蒼蝇(そうびょう)掃えども去らず

独尋禅室挹清風 独り禅室を尋ねて清風を挹(く)まん

第10課漢文訓読 185

上杉謙信「九月十三夜」 (中世)

謙信が能登遠征時に、 夜の宴で詠んだ詩。

霜満軍営秋気清 霜は軍営に満ちて 秋気清し

数行過雁月三更 数行(すうこう)の過雁月三更

越山併得能州景 越山併せ得たり能州の景

遮莫家郷憶遠征 遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶うを

頼山陽「泊天草洋」(近世)
江戸期の第一人者といわれる。表現力が豊かで、奇抜で派手なところが特徴で

ある。
雲耶山耶呉耶越 雲か 山か呉か越か
水天髻謂青一髪 水天 髻韜(ほうふつ)青一髪(せいいっぱつ)
万里泊舟天草洋 万里 舟を泊(はく)す天草の洋(なだ)
煙横篷窗日漸没 煙は篷窗(ほうそう)に横たわって 日 漸やく没す
瞥見大魚跳波間 瞥見(べっけん)す 大魚の波間に跳(おど)るを
太白当船明似月 太白船に当って明月に似たり

広瀬旭荘「送僧寥然」 (近世)

近世で中国人に最も評価の高い詩人である。日本人の作った漢詩には「和習」

といって、中国人から見て違和感のある用語、語法がどうしても混入するが、彼

の詩にはほとんど和習が無く、中国人の作った詩と区別が付かないといわれる。

黄葉山前黄葉秋 黄葉山前黄葉の秋

師今歸處我曾遊 師今歸る處我曾て遊ぶ

傷心最是詩翁墓 傷心最も是詩翁の墓

復有人来澆酒不 復た人の来りて 酒を澆(そそ)ぐもの有りや不(なし)



良寛「毬子」(近世)
良寛は書、和歌と共に詩も大変に愛されています。良寛は平仄や押韻、また和

習などをあまり気にせずに、のびのびと詩を作った。
袖裏繍毬直千金 袖裏(しうり)の繍毬(しうきう)直(あたひ)千金
謂言好手無等匹 謂(おも)ふ言(われ)は好手等匹(とうひつ)無しと
箇中意旨若相問 箇中の意旨 若(も)し相(あひ)問はば
ー二三四五六七 ー二三四五六七

(袖に入れた刺繍の毬は何ものにも替えられん。内心思うのは、わしは毬っき
の名人、かなうものは無いと。その極意は何かと云うとじやな、それはー二三四
五六七じやよ。)

186 •日语综合教程第八册

正岡子規「送夏目漱石之伊予」(近代)
明治時代の俳人・歌人(1867 —1902)〇伊予松山の出身で、東京大学在学中よ

り夏目漱石と親交があった。
去矣三千里 去(ゆ)けよ三千里
送君生暮寒 君を送れば暮寒生ず
空中懸大岳 空中大岳懸(か)かり
海末起長瀾 海末長瀾(ちゃうらん)起こる
僻地交遊少 僻地交遊少なく
狡児教化難 狡児(かうじ)教化難し
清明期再会 清明に再会を期す
莫後晩花残 晩花の残(つき)るに後(おく)るる莫(な)かれ

(この文章は明治書院『日本文学史 新版』(1975)と光文社『漢文の素養——誰が日本文化を作った
のか』加藤徹著(2006)などに基づいて作ったものである。)

第10課漢文訓読187


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