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Published by johntss124, 2021-06-21 19:15:07

日语综合教程8

日语综合教程8

量の花粉が見つかったのである。洞窟の中でもあり、自然の状態で花粉が落
ちたのではなく、人為的に持ちこまれたものであることは明らかだった。花
粉を顕微鏡で調べると、八種類の薬草であることが確かめられた。タチアオ
イ、アザミなどである。

ソレッキ教授は、これを死者に花束を捧げたものであると考えた。なぜな
らば、偶然、洞窟内にまぎれこんだにしては、あまりに花粉の密度が濃いこ
と。花粉が死者の上半身の土に集中しており、胸の上に花を置いたと考えら
れること。そして、本来、タチアオイ、アザミなどの花は群生せず、一本ず
つ離ればなれに咲く性質があり、これは人為的に集めた、つまり花束を作っ
たと考えられるからである。これらの花の咲く時期から、埋葬は6月ごろに
行われたことも分かった。

このことから考えると、6万年前、ネアンデルタール人はすでに死の意味を
知り、死の儀礼を持っていたと考えられる。ソレッキ教授は、これは原始的
な宗教の萌芽といえるのではないかと考えている 。

この一号人骨と四号人骨の発見は、死者を悼み、美しい花飾りを添えて埋
葬するという儀礼の最初の発見として人類学では有名なエピソードであるが 、
ここに、私たち人間の心の起源、人間性のはじまりを見ることができるので
はないだろうか。弱者へのおもいやり、死の認識、これらは人間性という言
葉を用いてもけっしておかしくないほど高度な心である 。この6万年前の遺
跡から出てきたものは、人間らしい心の存在を感じさせ、文明や文化といっ
たものに関連した最古の証拠の一つであるといえる 。

『NHKサイエンススペシャル驚異の小宇宙•人体II』(1993)による

k注釈

❶ラルフ・ソレッキ(1917—)
アメリカの人類学者。

❷シャニダールという洞窟
イラクのザーグロス山脈中にある洞窟遺跡。

❸ネアンデルタール人

旧人に属する化石人類。1856年にドイツのネアンデルタールで初めて発見された 。

❹タチアオイ

ァオイ科の越年草。高さ約2 メートル。初夏に大形の花をつける。

❺アザミ
キク科の多年草。春から秋にかけて紅紫色の花をつける。

90日语综合教程第八册

新しし 、言葉

惑星(わくせい) [名] ①太陽の周囲を公転する天体。②比喩的に、実力が

クオーク(quark) 未知ながらも有力とみなされる人。
悼む(いたむ)
間口(まぐち) [名] 素粒子を構成する基本粒子。

摩耗(まもう) [自他五] 人の死を悲しみなげく。
ハンディキャップ
[名] ①土地・家屋などの前面の幅。表口。②事業・研究
(handicap)
などでの領域の広さ。

[名•自サ変] すり減ること。ある面が他の面で擦られて減る現象。

[名] 不利な条件。

言葉と表現

な二、一・… 〜.....にして..一・. は一 ~一 - 一 ___ “ 一.. 一 ...... .. .. .... .

「〜にしては」名詞や用言について、「その割りに」という意味を表す。後に
は、そこから当然予想されることと食い違う事柄が続く。

❶ ソレッキ教授は、これを死者に花束を捧げたものであると考えた。なぜなら
ば、偶然、洞窟内にまぎれこんだにしては、あまりに花粉の密度が濃いこと。

❷子どもにしては難しい言葉をよく知っている。
❸始めたばかりにしてはずいぶん上達したものだ。
❹ 近々結婚するにしてはあまり楽しそうなようすではない。
❺ 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも

考えた。

I. 学習の手引き

❶ この文章は次のように六つの段落に分けることができる。それぞれの段落の内容を

要約してみよう。

第一段落[導入](初め〜) 第二段落[問題提起]

第三段落[事実] 第四段落[分析①]

第五段落[分析②] 第六段落[結論]

❷ この文章では「文明や文化」の本質をどのようにとらえているか、話し合ってみよ

う。

第5課エッセイ91

棵B

ー、本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
7.「しかし、本当にそうなのだろうか。」の「そう」は何を指すか。
2「『心』はそこに宿った、宇宙でもっとも神秘的な世界だといえる。」といえるの
はなぜか。
3「一号人骨」からわかったことはどのようなことか。
4「これは動物には見られない行動である。」の「これ」は何をさすか。
5. 「四号人骨」からわかったことはどのようなことか。
6. 「八種類の薬草」とあるが、普通の花ではなく、薬草を捧げることから、何が読
みとれるか。

二、次の日本語を中国語に訳しなさい。
現代の科学のいちじるしい進歩は、一方でロマンに満ちた宇宙誕生のシナリオを

描きだし、他方で、物質の極限の粒子であるクオークに代表されるミクロの世界の
謎をも、少しずつ解きあかしはじめている。私たちはすでに、世界の謎をほとん
ど知りつくしてしまったかのようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。

!読み物

人は獣に及ばず

•中野個夫

「人は獣に及ばず」ーー「春波楼筆記」に出る司馬江漢の言葉である。
一日、彼は織田侯隠居というのに招かれて、客となった。座にいまー人相客が
いた。オランダの学問技術のことが話題になったらしいが、突然その相客が、お
前はオランダのことはよく知っているようだ。だが、このオランダ人というもの、
細工には巧みなようだが、要するにあれは「人類にあらず。獣の類なり」と放言
したらしい。鎖国時代、公家衆などの口にしそうな放言である。それに対して江
漢は、即座に「人は獣に及ばず」と一蹴したというのだ。
司馬江漢というこの人物、別に一流の思想家などと考えるわけではないが、と
にかく一癖も二癖もある奇骨の市井人であった。時代に先んじて洋風画、銅板画
を描いたり、またどれだけオランダ語ができたか、それはいささか疑問だが、と
にかく蘭書を通じて地動説を唱えたり、開国貿易を主張したり、また封建身分制

92 日语综合教程第八册

を鋭く批判する人間平等主義の新知識であったことは疑いない。蒙昧の洋人禽獣
論を得々として述べた相客に対する、まことやりきれぬー言だったに相違ない。

さて、以上がこの言葉のコンテキストだが、近ごろの私は、これをもっと広い
意味で、人は獣に及ばずとの感慨を深くすることが実に多い。

人間とは、果たしてそんなにえらいものなのであろうか。たとえば自然環境の
中での人間の在り方(とりわけ今世紀来の)など、まず考えてみるがよい。獣、い
や、動物の方がはるかに美しい調和の中で生きているのではないのか。およそ世
に人類ほど邪悪で、残忍で、貪欲で、しかも醜陋な生物は、かって存在もしなかっ
たし、また将来も断じて存在しえまいとさえ思える。

つい先日もある通信は、バリ・トラの絶滅を報じていた。ジャワ・トラもまた
絶滅に瀕しているという。ー九六一年から六二年までアメリカの大学で教えてい
たころのことである。ある科学週刊誌が、なんとかいった野鳥の亜種の一つが、
これも絶滅が報じられ、最後の一羽が淋しく剥製にされている姿をのせていた。
こうした類のことは、いまや数限りなく起こりつつあるのではないか。すべては
人間の残忍性、貪欲性のなせる業である。

あほうどり

たとえば一時、これも絶滅を信じられていた信天翁が、近年ふたたび生存を発
見され、手厚い保護を加えられているなどというのも、たしかに一応の朗報には
ちがいないが、保護による保存とはそも何事であるか。すでに調和の共存は完全
に失われているのである。それで人類だけは、ひとりその増殖に苦しみ、どうや
ら世界的食糧危機とやらで、生きのびられるか否かということまで重大な頭痛の
種になりかけている。いかに動物性蛋白質が重要栄養源だからといって、いよい
よ遠く南極海まで、いくつかの船団がすでに乗り出しかけているらしい。クジラ
の食糧までもついに奪おうというのである。一応計画的漁獲などということは口
にしているが、いずれは乱獲に結果することは目に見えている。人類の知恵と称
すべきか、繁栄というべきか。むしろ貪欲性の演じ出す道化劇ともいうべきであ
ろう。

スピード陶酔にしても同様であろう。ジェット機、新幹線、ともにわたしは大
嫌いである。ジェット推進機の発達とともに、わたしの海外旅行は激減した。
ジャンボ機などは絶対に避ける。一度としてまだ乗ったことはない。なぜこう急
ぎたいのか。国鉄などは、まだリニア・モーターなどというものまで考えている
らしい。小さい日本を、なぜそう急ぐ必要があるのか。愚劣である。

戦 ——これはもう人類最大の愚行としか言いようがない。第三次大戦にまで
発展するか、どうかは別としても、まず次の中東戦争は、必ず近い将来に起こる。
現状のかぎり、エネルギー資源の重要性まではわかるにしても、そもそも人類は
何を志向しようというのか。大戦のたびに、彼等はあとで戦争の根絶を厳かに誓
い合う。だが、現実に行っていることは、つねに戦争抑止力を名とする恐るべき
殺人新兵器の開発という一事にすぎぬ。悔いに宿命づけられた生物—— その名は
人類とでもいうべきか。

第5課エッセイ93

もはや現在のわたしは、人類の叡智ということを、あまり信用する気になれぬ。
畢竟するに、人間とは、そも何者であるのか。もう四十年以上も昔、学校を出てそ
う間もないころだが、イギリスの高名な物理学者、天文学者ジェームズ•ジーンズ
の「神秘なる宇宙」という一書を読んで、思わず息をのんだ記憶がある。久しぶり
に埃まみれの蔵書を出して開いてみた。そこには大意次のような一節がある。

広大無際涯の宇宙に比して、地上の生命、まして人間の存在など、いがに偶然
気まぐれの所産にしかすぎないか。もともと生命存続が可能なような温度帯とい
うのは、全宇宙空間の中で、いうなれば億兆分のー a thousand million millionth part
にすら足りぬ。そこにたまたま地球が生まれ、生命が芽生え、さらに人間にまで
進化するなどというのは、想像をこえた偶然偶発事にしかすぎぬはず。したがっ
て「われわれ人類がこの宇宙に生じたのは、誤ってとはいわぬまでも、完全に偶
然の結果として転がり落ちたstumbled intoとしか思えぬ。この宇宙が、最初から
生命の発生を意図して創られたものだなどとは、とうてい考えられぬ。少なくと
も生命とは、まったく取るに足りぬ副産物として生じたにすぎぬようである。」そ
して彼は、さらに六匹の猿が、何十億年間かにわたり、やたらに、盲目的に、タ
イプライターを打ちつづける光景という失礼な比喩まで持ち出しているのだ。こ
うした猿のタイプ打ちがつづけば、偶然ひょっと一匹の猿が、あの見事なシェイ
クスピアのソネット一首を叩き出しているという偶然も、十分ありうる。地球の
出現も、そして生命の誕生も、まずはこの盲目的偶然以上には出まい、というの
である。

ずいぶんひどい要約にはなったが、考えてみれば、なるほど、そんなものかも
しれぬ。目に見えぬ塵の一片にも等しい人類などという生物を生み出すために 、
この大宇宙が創られたものとすれば、およそ世にこれほど無駄のひどい拙劣な設
計者はいまいということになろう。しかも、その微塵にも等しい人間が、宇宙の
君臨者面をしているのである。人は獣に及ばず、その愚や及ぶべからずとでもい
うべきか。

何千年後か、何万年後か、それは知らぬが、人類は亡ぶ。必ず亡ぶ。人類滅亡
後のこの地球は、いったいどうなるのだ。周知のように、遠い地球の歴史は、そ
の間いくどかの地殻激変を経験している。だが、そのたびに地上を蔽った生物、
とりわけ植物は、地下に豊かなエネルギー源となり、次に登場するより高等な生
物のために、豊かな繁栄の基盤を準備してきたといえる。だが、人類文明の後は
どうなるのか。おそらく破壊しつくされた自然、そして鉄とコンクリートの廃墟
の山は、もはや次代の繁栄にとっての豊かな資源を用意しうることなど、絶対に
まずなかろう。原始以前の状態に返り、そしてまた将来への可能性も何一つのこ
さぬ。死塊のような地球だけが、無限広大な宇宙空間の中を、ただ黙々として展
転しつづけるのであろうか。まことにいやな想像だが、案外あたらぬともいえな
そうである。

『現代の文章』(筑摩書房)による

94 日语综合教程第八册

I…注釈

❶ 中野 好夫(なかの よしお)(1903 — 1985)
評論家・英文学者。幅広い視野に支えられた気骨の文章が多い。伝記文学『アラビアのロレンス』
『蘆花徳冨健次郎』、翻訳『ガリヴァ旅行記』『チャップリン自伝』、評論・エッセイ『文学者の社
会的責任』『沖縄問題に十年』『人間の死に方』などがあるQ

❷司馬江漢(1747—1818)
江戸後期の画家•思想家。本名安藤峻。『和蘭天説』『訓蒙画解集』などの著作がある。『春波楼筆
記』(1911)は随筆集。

❸織田侯隠居
大和芝村(奈良県)藩主。

❹公家衆
幕府出仕の武家衆に対して朝廷に仕えた人々。

❺新知識
ここでは新しい知識を持った人。

❻バリ・トラ、ジャワ・トラ
バリ、ジャワはいずれもインドネシア・スンダ列島の島。バリ・トラはインドネシアのバリ島だ
けに分布した虎の亜種、1940年代に絶滅した。ジャワ•トラはインドネシアのジャワ島だけに分
布した虎の亜種、1980年代に絶滅した。

〇亜種
生物分類の一階級。種の下位で変種の上位。

❽信天翁
ミズナギドリ目の海鳥。羽毛利用のため乱獲され絶滅に瀕したが、島々に残存することが確認さ
れた。特別天然記念物•国際保護鳥。

❾クジラの食糧
オキアミ。

価 リニア・モーター(linear motor)
平板状の構造の電動機。歯車などの伝達機構が不要で、摩擦や振動のない速応性の高い駆動装置。

❿ シェイクスピア(William Shakespeare)(1564—1616)
イギリスの劇作者•詩人。四大悲劇『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』を始め、多く
の戯曲と『ソネット』集などに詩篇がある。

够ソネット
十四行からなるヨーロッパ文学の小押韻詩形。

I学習の手引き

❶ 鎖国時代の公家衆の蒙昧は現代人に比べて、どんな性質のものであったか、考えて
みよう。

第5課エッセイ95

❷ 科学技術が発達した現代人の愚劣な行為について、この文章では何を挙げたか、ま
とめてみよう。

❸ 人類が宇宙に生じたことは、どんな「偶然」であるか、この文章の表現でまとめて
みよう。

❹筆者はこの文章を書いて、何を言いたいのか、考えてみよう。

96 日语综合教程第八册

b第: 課

TUGUMI——告白——

[本文

その日は朝から雨だった。夏の雨は潮の匂いがする。
退屈な私はずっと部屋で読書をしていた。
このあいだの夜遊びがたたったのか、つぐみはここ数日間ずっと頭痛と発
熱で寝込んでいた。さっき、昼ごはんを持っていった時、つぐみはふとんに
もぐってうなっていた。そんな光景を見なれていて、なつかしいとさえ思っ
た私は大声で、
「ここにごはんおきますよー。」
と枕元におぼんをおいて部屋を出るときにふと、
「つぐみ、恋の病なんじやないの。」
と言ってみたら彼女は黙ったまま腕だけ出して私にプラスチックの水さし
を投げつけた。
何が何でもそういう部分は健在なのだ。
水さしはふすまのわきの柱に思いっきりぶつかってたたみの上をころがり 、
おかげ様で私の髪は部屋に戻ってもまだ少しつやつや濡れて静かにたたみに
広がっている。
窓の外、遠くで海が濃い灰色に波立ってこわいくらいにささくれだって見
える。空も海もすべてかすんだモノトーンのフィルターの向こうにある。こ
んな日はしめった土の匂いの中でポチも犬小屋にひっそりとすわって雨を見
ているのだろう。階下ではさっきから、海水浴に行けないお客たちが部屋を
どたばたと行き来している音や声がひびいている。いつもこうだった。雨の
日はみんながこの旅館という大きな家の中でひまをもてあます。ロビーにあ
る大きなTVや、古びたゲーム機のまわりにはたくさんの人がたかっている
のだろう。
気だるい思考の合間に、やたら読書がすすむ。窓ガラスを流星のようにつ
たう雨つぶが私の頭の中の画面を幾度もよぎっていった 。

第6課 TUGUMI——告白—— 97

そうしてふいに、
「もしつぐみがこのまま悪くなって死んでしまったら。」
と思う。それは実感として、うんと小さなころから、つぐみの体がもっと弱
かった時から身の内にある思いだった。そしてそれはいつでも、ふいにやっ
てきた。こういう雨の日は過去と未来がしんと空気にとけて浮かびあがって
くるのだ。
とたんに涙が一滴、本のページに落ちる。いつのまにかあふれて落ちる。
はっとした耳に、雨がしとしとと軒を濡らす音が聞こえ、私は〃いったい
何だったんだろう今のは〃という気分で涙をぬぐう。そしてすぐにすっかり
忘れて本の続きを読みはじめる。

〇〇

午後も三時になると、いいかげん読むものがなくなってしまった。つぐみ
はそういうわけで寝込んだままだし、陽子ちゃんは出かけてしまっているし、
TVもつまらないしで、あまりの退屈さに私は本屋に行ってみることにした。
部屋を出るときのふすまの音が聞こえたのだろう 、つぐみが閉まった部屋の
ふすまの中から、

「どこいくんだよう。」
と声をかけた。

「本屋よ。何か欲しいものある?」
と私が言うと。

「りんごジュース買ってきて、天然果汁100%のやつ。」
とかすれた声がした。きっとかなり熱が高いのだろう。

「わかった。」
「あとねー、メロン。それから、寿司だろ、それと……oJ
などという声が追いかけてきたが、無視して階段を降りていった。

〇〇

海辺の町の雨は特別ひっそりと降る気がする。海が音を吸いとってしまう
のだろうか。東京に住んでびっくりしたのは、雨がことさらざあざあ音をた
てて降るような感じがすることだった。

海沿いの道を通っていったら、真つ黒に染まった砂浜が墓場のようにしん
としていて不思議な感じがした 。海に降る雨はそれこそ幾千も 、幾千もの波
紋をひろげて、さざめく波に砕けていった。

町中でいちばん大きな本屋はやたら混んでいた。無理もない、こういう日
は町中の観光客が本屋にやって来てしまうのだ。店内をずらっと見てみると、
案の定私の求めていた雑誌類はみんな売り切れていた 。

98 日语综合教程第八册

仕方なく古びた文庫の並ぶ棚を見ていたら、なんと、いちばん奥の本棚で
恭ーが熱心に立ち読みしていた 。おやおや、と思った私は近づいていって、

「今日は犬を連れていないのね。」
と声をかけた。

「やあ。」と彼は笑って、「雨だからね、置いてきたよ。」と言った。
「住んでいるんじやないのに、どうやって飼っているの?」
「旅館にことわって、裏庭につないでもらってるんだ。長くいるんですっか
り仲良くなってしまって、ひまな時はふとんしきを手伝ったりしてるんだけ
ど、ほら、素性は言えないからさ、何だかスパイになったような妙な気分な
んだ。」
「そうね。」
私はうなずいた。彼はこれから山沿いに建つ予定の巨大なホテルのオー
ナーの息子で、 この町内で旅館を経営する人は、多かれ少なかれみなそのこ
とに頭を悩ませているのだから 。考えてみると、これは彼にとってもけっこ
う切ない夏なのかもしれないと私は思った。
「今日は、つぐみさんはどうしたんですか。」
と恭一は言った。
多分、あとで思いかえすからこんなふうに感じたように思うのだろうが、
彼が「つぐみ」の名を正確にきちんと発音した時、私は何だかつぐみの恋の
未来は明るいかもしれない、という感じで一瞬、胸がいっぱいになった。書
店の軒先のビニールシートから透明な雨のしずくがぽたぽた落ちるのを見な
がら、私は「つぐみ、寝込んでるのよ。あの子、ああ見えてもすごく体が弱
くてね。……もしよろしかったら、会いに来ませんか?つぐみ、喜ぶと思う
わ。」と言った。
「病気にさわらないようなら行きたいな 。」彼は言った。
「そう言えばやたら白くて細かったな。……あの子は面白い子ですね。」
うまく言えない。でもその時、町中をゆっくり閉ざしてゆく透明な雨音の
中、つぐみとこの子は何だかいいぞ、と確信した。
私はこの春から東京に住んで大学に通い、やたらたくさんのカップルを見
た(なんだか自分がものすごい田舎者のような、変な描写だけれど)。そして
その人たちには、二人がひかれあったなりの理由が確かに感じられた。外見
が似ているとか、生活態度や服の趣味が似ているとか、一見どんなに不調和
なカップルでも、長くいっしょにいると「わかる、わかる」という点が出て
くるものだ。しかし、私がその日つぐみと恭一から突然感じとったものは、
もっととてつもなく強いものだった。そう、さっき彼がつぐみの名を呼んだ
時、私の中では彼とつぐみが瞬間、ぴたりと重なって輝いたのだ。二人がお
互いに持つ興味の集中が、こんなに気だるい雨の午後を通り抜けて通じ合っ

第6課 TUGUMI——告白—— 99

ていることがわかったのだ。私は自分のカンに自信がある。そして私が二人
に感じているこのことこそが、宿命とか、大恋愛のきざしとかと呼ばれるも
のなのだろう。

煙る濃いグレーの道路の 、濡れたアスファルトに光る七色を見て歩きなが
ら、私はしみじみとそう思っていた。

「待てよ。見舞いなら、何か買っていった方がいいかな。あの子、何が好き
なんだ?」

恭一のその言葉に私は思わずぷっと吹き出して言った 。
「何でも、りんごジュースと、メロンと、寿司が欲しいそうよ。」
「•••••・食べ合わせが悪そうだな。」
と言って恭一が首をかしげ、こういうのを自業自得と言うのかと思った私は、
いつまでもくすくすと笑っていた。

〇◊

「つぐみ、お客さんだよ。」
っぐみの驚く瞳や、それをごまかそうとする手口などを想像してわくわく
しながら私はそっとふすまを開けた。
しかし、つぐみはいなかった。
こうこうと明かりのついた部屋の中、かけぶとんだけがつぐみが抜け出た
形のままで持ち上がっていた。私は呆然とした。いくらつぐみがいつも突飛
なことをする子だといっても、彼女は熱が九度近くあるのだ。
「……いない。」
私がつぶやくと、
「だって、すごく病人なんでしょ。」
、と変な日本語で恭一が眉をしかめた。

「そのはずなんだけど……oJ
と私は途方にくれた。

「ちょっとここで待ってて。下を見てくるから。」
玄関にかけ降り、げた箱にはいっくばってつぐみのサンダルをさがした。
いつもつぐみのはいている白い花のついたビーチサンダルがきちんとそろえ
てお客さんたちのサンダルにまざっているのを見つけてほっとした時、廊下
を歩いてきた政子おばさんが、
「どうかしたの?」と言った。
「つぐみが部屋にいないのよ。」
「えつ。」政子おばさんは目を見開いて言った。「だってあの子今、すごい熱
なのよ。今さっきお医者さんに来てもらって注射したばっかりなのに ……そ
れで熱が下がって調子づいちゃったのかしら ……oJ

100日语综合教程第八册

「きっとそうよ。」
「でも私、ずっとフロントにいたけどね 、まりあちゃんのあとだれも出てな
いわよ。館内にいるんじやないかしら……とにかく捜してみましょう。」
おばさんは不安そうに言った。
「何なの、いったい。」
と私はため息をついた。

〇〇

家の近所は恭一に見回ってもらうことにして、私と政子おばさんはつぐみ
を捜して旅館中を歩き回った。離れや、自動販売機のところもみんなのぞい
た。陽子ちゃんの部屋も開けてみた。…… いない。つぐみの姿がない。こん
な小さな建物の中、立ち並ぶ同じ形のドアの暗い廊下を、雨音にまぎれて何
度も行ったり来たりしていたら、私は淋しい迷路にまよい込んだような妙な
気持ちになってきた。蛍光灯の明かりの下をぐるぐる歩きながら、私も政子
おばさんもにわかに心細くなる。そうだった、昔からこんな時、私たちは心
配よりも怒りよりも心細さに襲われるのだ。いつもあんなに確かに見えてい

とも

た小生意気なつぐみの明るく灯る生命が、実はいつもかなり哀しいところに
いることを思い出すのだ。

たくさんブランコに乗っても、
半日、浜で泳いだだけでも、
深夜映画に夢中になって寝不足しただけでも、
ちょっと冷たい空気の日に上着を持たなかったくらいでも、
っぐみは倒れる。弱ってしまう。つぐみがあんなに確かな存在に見えるのは 、
か弱い肉体に抵抗して暴れる底力のせいにすぎない 。……ほんとうに、こうい
う雨の日は頭がぼうっとして、昔の記憶が体の内側からリアルに浮かびあがっ
てくる。感傷によく似たあのころの空気の色が、暗いガラス窓にうつるように
思える——幼い瞳にうつる閉ざされたふすまの重さ。母の告げる言葉「つぐみ
ちゃんの生命が危ないのよ、静かにしていなさい。」涙ぐむ陽子ちゃんの長い
みつあみ。本当に、子供のころはそういうことがしょっちゅうだった。
「いないわね……〇 J
とつぐみの部屋の前にたどりついた私たちはもう一度ため息をついた。
「この辺にはいませんよ。」
と言いながら恭一もとんとんと階段を上がって来た。彼は傘をささずに出た
らしく、髪を濡らしていた。
「まあ、こんなに濡れてしまって……ごめんなさいね。」-
政子おばさんは彼がだれだかもよく知らないのにとにかく恐縮して言った 。
順番がむちやくちやだ。

第6課TUGUMI—— 告白—— 101

「遠くに行っちゃったってことかしら。」
と私は言い、外を見ようとふと物干しの方へ歩き、外につうじる木わくの大
きな窓から物干しをのぞいた。
ー そして、発見した。

「いました■ ••…oJ
と私は力なくおばさんに告げ、窓をがらがらと開けた。つぐみは、何と物
干し台の床と、その下の二階の屋根との間にもぐり込んでいたのだ。板と板
のすき間から私を見上げて、かがみこんだままつぐみは、
「ばれたか!」と言った。
「なにがばれたか、よ。何やってんの?」
私は心の底からあきれて言った。わけがわからなかった。
「きやあ、はだしで!そんな冷たい所に……はやくこっちに来なさい;また
熱が出ちゃうわよ!」
おばさんは明らかにほっとした表情で言った。そしてしめったつぐみを物
干し台の下からずるずるとひっぱり出した 。
「今、タオルを持ってくるから、おふとんに入っているのよ、わかった?」
ばたばたとおばさんが階下に降りていった後 、私は言った。
• 「つぐみ、どうしてあんな変な所にいたの?」
確かにつぐみはかくれんぼをする時 、あの場所にかくれるのが得意だった。
しかし今はかくれんぼをするような時ではなかったのだ。言うまでもないが。
「だっておまえがさあ。」つぐみは熱のせいでうかれてけらげら笑いながら
言った。
「恭一をつれてあたしをびっくりさせようとして意気揚々とやって来たのが
窓から見えちゃったからさ、裏をかいてやろうと思って。」

◊〇

「君のお母さんは優しいんだな。」
恭ーが言った。気を使った彼は、もう帰ると言ったのだが、おばさんもっ
ぐみも私も必死で引き止めて、お茶を飲んでいってもらうことになった。
「君のことを全然、しからないもの。」
「娘を海より深く愛しているんだよ。」
つぐみは言った。うそをつけ、と私は思った。おばさんの平静さはつぐみ
にわずらわされることに対する単なる慣れであった。まあやがてわかること
だから、と思い、私は黙ってお茶を飲んでいた。それに、恭一がつぐみを見
る瞳がまるで死にかけた子猫を見るような同情にあふれるまなざしだったの
で、水をさしたくなかったのだ。……こう言っている私でさえつぐみの容態
が少し気がかりになるほどつぐみはつらそうだった。目の下にはくまができ、

102日语综合教程第八册

呼吸がはやく、唇が真つ青だった。濡れた細い髪がひたいにはりつき、瞳と -
ほほがぴかぴか光って見えた。

「じやあ、おいとまするよ、またな。バカな遊びはやめて、大人しく寝て、
早くなおしな。」

恭一は立ちあがった。
「待ってくれ。」つぐみは言った。そしてものすごく熱い手で私の腕をつか
み、
「まりあ、あいつを止めるんだ。」
とかすれた声で叫んだ。
「... って言ってるから、待って。」
と私は恭一を見上げた。
「なんだい。」
彼は枕元に戻って来た。
「何かひとつ話をしてくれ。」つぐみは切実にそう告げた。「あたしは子供の
ころから新しいお話をひとつ聞かないと眠れないんだ。」
うそをつけ、と再び私は思った。でも、その「新しいお話」というフレー
ズはすてきだなと思った。可愛らしいし、何か良い香りのする単語だった。
「うーん、お話ね。そうだな、それじやあ君が大人しく眠れるように、タオ
ルの話をしてやろう。」
恭ーが言った。
「タオル?」と私は言い、つぐみもきょとんとした。
恭一は続けた。
「俺は子供のころ、心臓が悪かったんだ。それで、体力がつく年まで手術待
ちをしていたわけだ。もちろん今は手術後だよ、ぴんぴんしていてそのころ
のことはめったに思い出すこともないが、大変なことや、つらいことにぶち
あたると、タオルのことを思い出すんだ。……昔、俺は本当に寝たきりの子
供だった。手術しても良くなるとは限らないのに、それを待っていたんだ。あ
てのないものを待つのは、ふだんは良くても発作の時なんて、もう心からゆ
ううっで不安になった。つらくて仕方がなかったよ。」
雨音が消えてゆくように思えた。私たちは彼の唐突な話を集中して聞いて
いた。恭一は淡々としかしはっきりと語り、その声は静かな部屋に響いた。
「発作の時は、いつも横になって何も考えないようにしていた。目を閉じる
と、いらないことを考えてしまうし、闇がいやで、ずっと目を開いていた。そ
して、苦しさがすぎるのを待つんだ。クマに出会って死んだふりをするって、
きっとああいう気持ちなんだろうな。実にいやな状態なんだ。俺の枕カバーは
特製で、母親が嫁入りのとき祖母から贈られた外国製の良いタオルだった。母
親はそれをずうっと大切に使ってきて、はしがほつれたんで枕カバーに縫いな

第6課 TUGUMI—— 告白—— 103

おしてくれたんだ。濃いブルーに、色とりどりの外国の旗がずらりと並んでい
るかっこいい柄でね。そのくっきりした色合いを、横になった角度からじっ
と、じっと見ていた。いつもそうやってやりすごしていた 。……そのころは何
とも思っていなかったんだが、後でさ、例えば手術の前や、手術後のつらい
時、その他もろもろのいやな事にぶつかる度に頭の中にばーん、とあのタオル
の柄が浮かぶんだ。そんなものはもうとっくにこの世にはないのに、まるつき
り目の前にあるとしか思えないほどくっきり見えるんだ。今にも手に取れそう
なくらいにね。そして、妙に気持ちがしっかりしてくるんだ。俺は、これはひ
とつの信仰だなと思った。何だか面白いだろ、おわり。これでいい?」

「なるほど……oJ
と私は言った。彼の落ち着き、きちっと線を引いたような老成したふるま
い、そしてその瞳は、彼がそういう子供時代を過ごしてきたから身についた
ものなのだろう。その出かたは全く正反対にしても、ひとりだけの道を歩い
てきたところはつぐみも同じだった。それがいくら自然の産み出したやむを
えないこととはいえ、つぐみのこわれた肉体に、つぐみの心が宿っていると
いうのはひどく切ないことだった。つぐみにはだれよりも深く、宇宙に届く
ほどの燃えるような強い魂があるのに、肉体は極端にそれを制限しているの
だ。その空しいエネルギーが、恭一の瞳の中にあるものをひと目で感じ取っ
たのだろう。
「旗を見て、遠くの国のことを考えたりした?死んでから行く所のことも? 」
つぐみが恭一を見てどきりとすることを言った 。
「うん、いつも考えてた。」
恭一は言った。
「そして、今はどこにでも行ける奴になれたんだね、いいなあ。」
つぐみは言った。
「うん、君もなれよ。…… いや、どこにでも行ければいいってもんじやない。
ここもいい所だよ。ビーチサンダルで、水着で歩けて、山も海もある。君の
心は丈夫だし、君は気骨があるから、ずっとここにいても、世界中を旅して
いる奴よりたくさんのものを見ることができるよ。そういう気がするね。」
恭一は静かにそう言った。
「だといいな。」
っぐみは笑った。瞳をきらきらさせて、ほてったほほのままで白い歯をに
こっと見せた。白いふとんにつやめいたそのほほの赤がほんのりうつりそう
だった。今日はとても涙もろくなっている私は、思わず下を向いて、まばた
きをした。その時、つぐみが恭一をまっすぐ見て言った 。
「おまえを好きになった。」

『TUGUM I』(1989)による

104日语综合教程第八册

I.注釈

❶ 吉本 ばなな(よしもとばなな)(1964—)
小説家。本名、真秀子。東京都生まれ。小説『キッチン』『白河夜船』『アムリタ』などがある。

❷私
白河まりあ。大学1年生。夏休みを利用して、少女時代を過ごした山本家に来ている。

❸っぐみ
「私」の1歳下の従姉妹。山本家の次女で高校3年生。

❹旅館
っぐみの父の経営する山本旅館。山本家の住まいも兼ねている。

❺陽子
っぐみの2歳違いの姉。

❻恭一
「私」とつぐみが、犬を連れて散歩していた時に出会った青年。

〇政子おばさん
「私」の母の妹で、つぐみの母親。

k新しい言葉

たたる(祟る) [自五] ①神仏や怨霊が災いをあたえる。②あることが原
因で悪い結果が起こる。
うなる(唸る) [自五] 力を入れて低い声を長く引いて出す。うめく。
モノトーン [名] 単調。単色調。
もてあます(持て余す) [他五] 処置に困る。手に余る。
たかる(集る) [自五] ①群がる。②金品をおどし取る。
よぎる(過ぎる) [自五] 通りすぎる。
ぬぐう(拭う) [他五] ふき取る。消す。
かすれる(掠れる) [自下一] ①墨や絵の具がつかないところができる。②声が
しわがれる。
素性(すじょう) , [名] ①生まれた家柄や育ち。②今までの経歴。③生来
の性質。
切ない(せつない) [形] 胸がしめつけられるようにつらい (悲しい)。
悲しみや感動などで胸がつまる。
胸がいっぱいになる [慣] 非常に度をはずれているさま。途方もない。
自分の悪事の報いを自分で受けること。
とてつもなく [慣] 犯罪、悪事の方法。
非常に変わっているようす。
自業自得(じごうじとく) [名] はうようにうずくまる。

手口(てぐち) [名]

突飛(とっぴ) [形動]

はいつくばう [自五]

第6課 TUGUMI——告白—— 105

離れ(はなれ) [名] 母屋から離れてある家。「離れ家(はなれや)」の
略。
底力(そこぢから) [名] 内にひそむ強い力(実力)。
しよつちゅう [副] 始終。いつも。
かがみこむ(屈み込む) [自五] 体を前に曲げて低い姿勢になる。しゃがみ込む。
うかれる(浮かれる) [自下ー] 楽しくてうきうきする。
裏をかく(うらをかく) [慣] ①矢、刀、槍などが裏まで通る。②敵の計の反対
に出てその計略を出しぬく。相手の意表をつく。
水をさす(みずをさす) [慣] ①水を加えてうすめる。②うまくいっているのに
邪魔をして不調にする。
きょとん [副] 意外さに目を見開いてぽかんとしているようす。
ほつれる(解れる) [自下一] 端から解ける。ほどける。
ほてる(火照る) [自五] 顔や体が熱く感じる。
ほんのり [副] ほのかなようす。

言葉と表現 :

匚!何が何でも

「何が何でも」は副詞的に使われる。

1. 非難。「何が何でも」の後ろに非難や注意を表す表現を伴って、「何かの事情
があることは認めた上でも、なおかつ非難や注意に値する」という気持ちを
表す。「どんな理由があったにしても」「いくら何でも」の意。
〇何が何でもそういう部分は健在なのだ。
この記事は、何が何でもひどすぎる。
❷ 何が何でもこんな小さな子どもにその役は無理だ。

2. 意気込み。「何が何でも」の後ろに話し手の意志や依頼を表す表現を伴って、
「事情がどのようなものであっても、何かをやり抜く、やり抜いてほしい」と
いう意気込みを表す。「どんなことがあっても」「ぜひとも」の意。
〇あの人には何が何でも負けたくない。
❷ 何が何でも彼女を説得してください。

会ーー何.で・も・一一ーーーー—…一…———ーーーー.•一ーーーーーー・——_ーーーーー…一一...... ーーーーーJ

「何でも」は副詞。後ろに「らしい」「そうだ」「という話だ」「ということだ」
などの伝聞を表す表現を伴って、人から聞いた内容をあまり確信を持たずに伝
えるのに用いる。

106日语综合教程第八册

❶ 何でも、りんごジュースと、メロンと、寿司が欲しいそうよ。
❷ 何でも彼女はもうすぐ仕事をやめるそうですよ。
❸ 何M虫このあたりには幽霊が出るっていう話ですよ。
❹ 何でも関西のほうに移ったと聞いている。

淫し_何とー…一... —___ ........•一—......... j

「何と」は陳述副詞。ここでは「何と〜のだ」の形で、驚いた、あきれた、意
外に思う気持ちを表す。

❶ っぐみは、何と物干し台の床と、その下の二階の屋根との間にもぐり込んで
いたのだ。
「何と」は一般に「何と〜のだろう」の形で、驚いたりあきれたりすばらしい

と思ったりしたことを、感嘆の気持ちを込めて表現するのに用いる。
❶ なんと美しい人なのでしょう。
❷ 彼女の気持ちが理解できなかったなんて、俺はなんと馬鹿だったのだろう。

I学習の手引き

❶ 次のそれぞれの場面における「つぐみ」の心情はどのようなものか。
1) 「私」に水さしを投げつけたとき。
2) 物干し台と、その下の二階の屋根との間に隠れていたとき。
3) 「おまえを好きになった」といったとき。

❷ 次のそれぞれの場面において「私」は「つぐみの恋」をどのように感じているか。
1) 本屋で恭一と会ったとき。
2) 恭一の「タオルの話」を聞いたとき。

❸「つぐみ」はどのような人物として描かれているか、まとめよう。

練習

ー、本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
7.「何が何でもそういう部分は健在なのだ」とはどのようなことをいうのか、。
2「もしつぐみがこのまま悪くなって死んでしまったら。」という「私」の思いに注
意して、「私」とつぐみの関係を考えてみよう。
3. 海辺の町と東京の雨の違いを「私は」はどのように感じているか。
4. 本屋で恭一と会ったとき、「私」は「つぐみの恋」をどのように感じたか。
5. 「こういうのを自業自得というのか」とは、どういうようなことか。

第6課 TUGUMI—— 告白—— 107

6. 「『だって、すごく病人なんでしょ。』と変な日本語で恭一が眉をしかめた。」と

あるが、「変な日本語」とは、どのような点をいうのか。普通の言い方に直す

にはどう言ったらよいか。

7. つぐみを探すときの、「私」と政子おばさんの心情はどのようなものか。

8. 「順番がむちゃくちゃだ。」とあるが、この前どのようなことが必要だったと思

われるか。 ヘ

9. つぐみを発見したときの「私」の心情はどのようなものか。

10. 「私」がつぐみのうそをどのようにうけとめているか。

11. 「……これはひとつの信仰だなと思った。……」とあるが、恭一がそう思った

のはなぜか。

二、 次の日本語を中国語に訳しなさい。
1. 「ここにごはんおきますよー。」
と枕元におぼんをおいて部屋を出るときにふと、
「つぐみ、恋の病なんじやないの。」
と言ってみたら彼女は黙ったまま腕だけ出して私にプラスチックの水さしを投
げつけた。
何が何でもそういう部分は健在なのだ。
水さしはふすまのわきの柱に思いっきりぶつかってたたみの上をころがり、お
かげ様で私の髪は部屋に戻ってもまだ少しつやつや濡れて静かにたたみに広がっ
ている。
2. 「つぐみ、お客さんだよ。」
っぐみの驚く瞳や、それをごまかそうとする手口などを想像してわくわくしな
がら私はそっとふすまを開けた。
しかし、つぐみはいなかった。
3. 「娘を海より深く愛しているんだよ。」
つぐみは言った。うそをつけ、と私は思った。おばさんの平静さはつぐみにわ
ずらわされることに対する単なる慣れであった。まあやがてわかることだから、
と思い、私は黙ってお茶を飲んでいた。

三、 次の文章を読んで、後の問に答えなさい。
何のために進学するのか。自分が本当にやりたいことは何なのか。入試の季節を

前に、多くの若者たちが、迷いと焦りの中にいる。就職組の中にも①いるだろう。
(A)、結局は、なんとなく流れに身をゆだねて、②問題を突きつめないままに終わっ
てしまう。多くの青春の現実である。受験体制のもとで育つ今の若者たちには、ひ
ときわその思いが濃いのかもしれない。

今春、宮城県の高校を出た博子さん(19歳)もそんなー人だった。⑦漠然と大学へ
行くのを延期した(B)は、失業者や①且雇い労務者のおおぜい住んでいる地区で1

108日语综合教程第八册

年間を過ごすことになった。銀行員の家庭で不自由なく育ったそれまでの生活体験
からは、想像もできなかったような世界 (C)日々。博子さんの決心を支持してくれ
た母親が、夏に様子を見に来て、③「連れて帰りたい」と言った。(D)。初めて人の
世の裏をかいま見、人生の重さを(E)。「来年は大学を受けます。まだ自分の目的が
っかみきれてはいません。でも、自分の足で歩いていけば、何かに必ずぶっかると
思えるようになりました。」

ひとまず回り道をしてもいい。自分を世間の風の中で◎鍛えてみたいと願う若者
を、全国各地の福祉施設へ1年間送り出す。名づけて「ボランティア365」計画。大
学を休学したり、勤め先を退職してまで©応募してくる若者もいるという 。今年も
博子さんを初めと36人が、それぞれの場所で汗を流しながら、④何かを/手探りす
る一年を(F)いる。慈善的な奉仕行為ではなく、自分が真に生きる努力としてのボ
ランティア活動と言えようか。協会では、来週から派遣する40人を募集中である。

画 下線の語0-®の読み方を、平仮名で書きなさい。

dB (A)〜(F)の中に入れる適当な語を、それぞれa・b・c・dの中から一つ選

びなさい。

(A) a.そして b.だが c•あるいは d•すなわち

(B) a・人 b.者 c,学生 d,彼女

(C) a,への b.にの C.での d.までの

(D) a.そして、博子さんは帰らなかった

b・そして、博子さんは帰った

c. しかし、博子さんは帰った

d. しかし、博子さんは帰らなかった

(E) a.教える b.教えられる c・教えさせる d.教えてやる

(F) a,働いて b・過ぎて c・過ごして d•かかって

波線①で、就職組の中にも、どんな人が「いる」か。文中の語句を使って答
えなさい。

個〇 波線②で、「問題を突きつめないままに終わってしまう」の「終わってしま
う」はどんな意味か、次から一つ選びなさい。
a, 問題をつきつめないままに一生を終わってしまう。
b, 問題をつきつめないままに一日一日を終わってしまう。
c, 問題をつきつめないままに青春を終わってしまう。
d, 問題をつきつめないままに受験したり就職したりしてしまう。
e, 問題をつきつめないままに迷いと焦りの中にいる。

第6課 TUGUMI—— 告白—— 109

(iB 波線③で、博子さんの母親が「連れて帰りたい」と言った理由は、どのよう
に想像されるか。
a.博子さんが大学に入りたいと思っているから。
b・若い娘が生活するような所ではなかったから。
c, 博子さんが生活に疲れて健康を害したから。
d. 博子さんといっしょに住みたいから。

波線④で、「何か」とはどんなことか。 b•自分のためになること
a,困難なこと d,解決しなければならないこと
c,たのしいこと

[読み物

いや

癒しとしての死の哲学

•小察海郎

たとえば、日本在住のあるアメリカ人ジャーナリストは、癌告知に関するアン
ケートに次のように答えている。

癌告知をタブー視し、問題にしているのは日本だけである。中国、韓国も日本と
同様かもしれないが、少なくともアメリカ、ヨーロッパの国々では、全く話題になつ
ていない。医者に患者の病名や病状を隠す権利はなく、通常、医者が癌であること
を教えないことは、考えられないからだ。

こうした違いが起こる最大の原因は、医者の姿勢である。はっきり言えば、日本
の医者は自分たちに都合のよい秘密主義の上にあぐらをかき、傲慢になっている。訳
のわからない薬を必要以上に投与し、手術をなぜ、どのようにするのか、患者や家
族が納得できるような説明はしない。最初からオープンではない。その延長として、
癌告知の問題があるように思えてならない。欧米から日本に来ている仲間は、だれ
もが「日本で病気になれない」と言っている。

そもそも権利問題の観点から見ても、官僚組織でも警察機構でもない病院に、病
気の実態を隠す権利はない。慈善事業でやっているわけではなく、患者は健康保険
にせよ、医療費をちやんと支払っているのだ。したがって、医者には、治療の内容
まで、正直に教える義務がある。日本の多くの医者には、その義務感がない。

110 日语综合教程第八册

この種の言説は、「個人の自由な権利」という原理だけでどんな社会問題も切
り捨てていけると考える、アメリカ型近代主義の独善的な価値観が非常にナイー
ブに露出していると言ってよい。あたかも欧米の医者はみんなオープンですばら
しくて、患者の意識は進んでいて、日本の医者はみんな秘密主義で権威主義で、
患者の意識は遅れているかのような印象を与えようとしているが、どれだけの実
証的視野でこういう放言を言っているのであろうか。

アメリカは、最後に頼れるのは個人だけ、という考え方が、ほとんど強迫観念
のようにしみついている社会である。また、すべてを眼前にはっきりとさせずに
は済まない実験精神と行動精神に強く貫かれている。もともとそういう考え方や
精神が要請されるようなきつい社会構造を持っているうえに、キリスト教的な価
値観がその社会構造に見合う形で人々の意識のアイデンティティを作っている。

キリスト教の神の前では、人は、等しく一人の個人である。神に向き合うとき
には、どんな関係も社会的属性も洗い去って、裸の個人として自分を了解するの
でなくてはならない。そこでこそ初めて、自分のかつての過誤や罪が、純粋な形
であらわとなる。周囲のどんな親しい人たちも、最終的には自分を支えてくれな
い。自分の命のことは、自分で責任を持ち、自分で自覚を深めるのでなくてはな
らない。

自己責任の観念を最も尊重するこうした考え方は、当然、その条件として、自
分がその事態について、明瞭に、言葉によって、「知る」ことを必要とする。明
瞭に「知る」ことがなければ絶対的な責任の取りようがないからだ。言葉によっ
て「知る」こと(際立った認識の形を自分自身に突きつけること)は、個人に、
まさにその個人にとって、だれにも譲り渡せないものとしての固有の尊厳を与え
るはずである。

だからこそアメリカでは、こうした理念に基づいて個人が自分の死を受容して
ゆくための、社会的・精神的システムもそれなりに整備されている。ホスピスで
のターミナルケアやセラピー、カトリツク司祭による神への導きや死に臨んでの
告解の儀式など、個人が自分の死の可能性を切迫したものとして知らされてから
•死に至るまでの孤独な心の過程に、そのつど対応するように工夫された装置が
十重二千重に張り巡らされている。私たちは、何も無理をしてまでそういう文化

のまねをする必要はないのである。
波平恵美子は、日本では「病名を告げないでほしい」という医師への要望が主

として家族から出されることに注目して、その危惧の具体的な感覚のありように
ついて、次のように述べている。

本人も家族も死が近いと知っていても、それを互いが表明することで、病人と家
族との間で、相互に疎外し合う状況が生じるこ・とを双方ともに恐れている。「死にゆ
く者」と「生き残る者」とをつなぐ橋は宗教であるが、宗教が日常生活の中で生き
ていない現在の日本では、この相互疎外の状況を打開する具体的な手段がない。

第6課TUGUMI——告白—— 111

彼我の文化的相違は、このように、宗教の有無として論じられることが多い。
的を外してはいないが、多少表現に問題があるように思われる。西洋には宗教が
あるから死の宣告に対して耐えられる、日本にはそれがないから耐えられない、
という言い方をしてしまうと、議論の混乱を招くであろう。あたかも日本人は宗
教の支えがないために、西欧人に比べて、死に対して「より弱い」精神しか持っ
ていないと言っているように受け取れるからだ。

西欧人といえども、格別に強い信仰上のバックボーンを持っているわけではあ
るまい。ことに現代では教会など見向きもしない西欧人は多い。見方によっては、
個であることを強いられるために、その孤独さに耐えられないからこそ、「苦し
いときの神頼み」を必要としているとも言えるわけで、それはむしろ日本のよう
に、いちいち言葉や自覚的な形で表現しなくてもなんとなく 「共同でわかり合え
てしまう」民族的土壌を持たないゆえの文化的な知恵であるとも言い得る。

つまり話は反対なので、キリスト教という宗教があるから彼らは「強い」ので
はなく、個として生きることを強いる社会構造的な必然があるから、そのきっさ
を一方で緩和する文化的機能として、伝統的な宗教が駆り出されたり、その現代
版であるさまざまなメンタルケアのシステムが工夫されたりするのである。

片や日本に宗教がないのかと言えば、必ずしもそうではない。日本人は、日常
生活の中に、儒教的なものや仏教的なものを溶かし込む形で、いわば無意識的に
「宗教性」を生きてきたのである。一般の日本人は、西洋人のように「私は何々
教の信者である」と自覚的に表現することは少ないが、その代わり、日々の生活
の中に、自分でも意識しない形で信仰心を張り巡らし、実行している。ここで重
要なのは、その「見えない信仰心」が、家 傢族)の紐帯と深く結びついている
ということである。そしてこのことと、癌告知が日本において特別に慎重な配慮
を要する問題とされることとの間には、のちに述べるように深い関係があるよう
に私には思えるのである。

日本人が、戦後これだけアメリカ文化の影響を強く受け、「癌告知」に関して
もその「個人の知る権利」的な近代イデオロギーの浸透によってじわじわと 「知
らせてほしい」の率を高めてきたにしても、なお依然として根強い抵抗や迷いを
示しているという事実。この事実を、単に「優柔不断な煮え切らなさ」「決断力
のなさ」「乗り越えるべきあいまい性」「個人の未確立」といったマイナスイメー
ジだけで性格づけて済ませられるだろう か。 そこには、むしろあるポジティブな
文化的理由があると考えるべきではないだろうか。

実は「癌告知」の意識調査において、「知らせてほしい」がどれくらいあるか
という部分にだけ注目するのではなく、別の部分にも注意深く目を向けたとき、
決まって出てくる興味深い傾向がある。「自分が癌になったときには知らせてほ
しい」と答える割合がかなりの高率を示すにもかかわらず、「あなたは癌告知に
賛成か」という一般的な質問や「家族が癌になったとき本人に知らせるか」とい
う質問に対しては、多くの人がためらいを示すという事実である。

112 日语综合教程第八册

ある調査では、「自分には知らせてほしい」が過半数であるにもかかわらず 、
「一般論として癌告知に賛成か反対か」という質問に対して「賛成」と答えたの
は、わずかに!8.8%であり、実に62.9%が「どちらとも言えない」と答えている。
また、別の調査でも「どんな場合でも知らせてほしい」が50%に対し、家族や近
い親戚が癌になった場合、「どんな場合でも本当のことを告知する」と答えたの
は、やはり19%にすぎない。合理主義の立場からすれば、はなはだ矛盾している
としか言えないこの態度—— この日本人の深層心理は何を意味するのか。

日本人は、要するに「相手を気にする」ことで「自分を立たしめる」民族なの
である。日本人は格別「相手の立場を 慮 ってあげる」思いやりのある優しい
民族なのではない。また、とくに「真実と対面することから逃避しようとする」
臆病な民族なのでもない。相手と自分との関係に配慮することを通じて初めて自
分を実現させようとする民族なのである。したがって、親しい者の癌について告
知することをためらうという心情には、関係イ生の維持というところに自己存立の
根拠を置いている日本人特有の実存構造が映し出されていると言えるだろう。

ところで、この場合の関係性とは、単に一般的•不特定多数的な他者との関係
性ではなく、私が好んで用いる言い方を使うなら、「エロス的な」関係性である。
つまり、命にかかわるような深刻な問題が生じた場合には、個人としての区分や
輪郭や境界を原理とした判断の感覚はどちらかと言えば相互の意識の後景に退き、
そこににわかに家族の関係性そのものが、感じ、判断し、決断する主体であるか
のように前面に出てくるのである。

「かわいそう」という感覚は、日本人の関係意識に最もなじみのあるものであ
る。しかし言うまでもなく、その心情が、本当にその相手のためになるものであ
るかどうかは問題とならない。癌であることを知らせてやったほうが、実は相手
の生にとって有益であり、ひいては、自分にとっても相手との間に美しい、いい
関係が作れるのかもしれない。だが多くの日本人の心情はそれを肯んじない。
「本当のことを言ったら相手がかわいそうだし、それを思うとつらくて言えない」
と観ずることそれ自体が、相手と自分との関係の構成要件であり、自分という存
在を支える条件なのである。

この独特のあり方を、「常に相手にとって何が幸せかを思いやる」ととらえる
のも誤りであるし、「結局は自分が傷つきたくないというエゴイズムでそうして
いる」ととらえるのも皮相な見方である。これらの見方は、いずれも、自己と他
者というものを明確に境界づけられる個と個の対立関係として、あらかじめ前提
としたところに成り立つ把握のしかたである。すべての感情や行動は、利己的な
動機に発するものであるか、利他的な動機に発するものであるかどちらかである
という、個体主義に基づいた合理的世界観を暗黙のうちに想定しているのだ。

実際には、多くの日本人が「知らせるのはかわいそう」と観ずるまさしくその
時点において、彼らは自己の実存を成り立たせているのであるが、そのとき同時

第6課 TUGUMI—— 告白—— 113

に、その自己の実存とは、相手との情緒的つながりとしての自己なのである。自
己は、関係以前にあらかじめ存在して関係を取り結ぶための要素となるのではな
い。そうではなくて、情緒的関係それ自身が自己なのである。この場合、情緒的
関係それ自身とは、「相手への思いとしてあるということ」そのことである。彼
らはこの思いにおいて、エロス的関係そのものになってしまうのである。

先に述べたように、日本人の宗教が個にとって必ずしも常に意識的、自覚的な
ものとしてあるのではなく、あるエロス的共同性の気分の中にあいまいに溶かし
込まれているということと、今考えてきたような、相手との情緒的つながりその
ものにおいて自己を成り立たせるという実存の構造とは、密接なつながりがある
と考えられる。

さて翻って、本人に癌であることをはっきりと知らせるということは、どんな
意味を持っているだろうか。私の考えでは、それは単なる情報の十分さ、不十分
さの問題にとどまるものではない。

助かる見込みのない病気であることを、本人に「知らせる」ということは、彼
自身が、自分の運命というものを引き受ける一つのしかたである。「知らせる」と
いうことは、外からの・言葉による•明瞭な•自己限定づけであり、そのことに
よって、彼は、自分が他者と断ち切られた個人であることを、究極的な形で身に
帯びさせられる。権威ある他者からの「死の宣告」という一つのスタイルは、個
という境界線を、個人に絶対的な形で、ことさら輪郭づけてみせる、最も端的な
しかたである。

この宣告によって、本人は、自分に何が起こっているのかが「わかる」。しか
し、そのわかる「わかり方」は、言葉による•外からの自分への表明という形に
よってである。ところでそれは、単に、いずれどのような形で悟ろうと同じ一つ
の「近いうちの死」という真実が厳然とあり、それを悟らせるのに、たまたま言
葉による表明という手つ取り早く•明瞭な手段を取ったにすぎないということを
意味しているのではない。

およそ、人間の関係や生き方について投げかけられた「言葉」は、真実伝達の
ための単なる「手段」ではない。ある明瞭な言葉によってその人を区画づけるこ
とは、その人の実存を新たに規定する。「言葉」とは、実存が世界の中に開示さ
れるその一つのあり方そのものである。

我々は、普通、真実というものは、どのような形でその人に内在化されよう
と、その動かし難い事実性としてはたった一つである、と思い込んでいる。しか
し、「どこにも表明されないが、しかも表明の以前に厳然と存在している真実」
などというものはないのであって、真実とは、常にある形をとって表明されたも
のや悟られたものや生きられたもののことを言うのである 。

だから、それがいかなる表明のされ方や、いかなる悟られ方や、いかなる生き
られ方をしたかということは重要な意味を持っている。まさにそれがどのように
表明されたり伝えられたり受け取られたりしたかということによって、ある生に

114日语综合教程 第八册

とっての多様な真実として現れ得るのである。したがって、ある「わかり方」は、
我々が普通「わかる」とか「知る」とかいう言葉で考えている範囲以上のことを、
実際にはその本人にさせているのである。つまり彼は、ある「わかり方」によつ
て、同時にある「生き方」を選んでいるか、強いられているかしているのだ。

要するに、私がここで言いたいことは、人間は、「医学的知識と情報の権威」で
ある他者からの「告知」という形によって自分の運命を知らされ・規定づけられ
なくとも、別の「わかり方=生き方」によって自分の生と死の問題を引き寄せる
ことができる存在だということである。この私の提言が少しでも説得力を持つと
すれば、西洋的な、明瞭な•外在的な言葉による実存の区画づけは、必ずしも人
が近づく死に際して取るべき絶対の道というわけではなく、たかだかそれに対し
て民族的な資質から選び取られた一つの知恵にすぎないということになる。

『癒しとしての死の哲学』(2002)による

I.汪釈

❶ 小浜 逸郎(こはま いつお)(1947—)
評論家。神奈川県生まれ。主として学校・子供・家族などをテーマに同時代論を展開している。著
書に『学校の現象学のために』『方法としての子供』『可能性としての家族』などがある。

❷タブー(taboo)
(もとポリネシア語)①原始社会で、犯してはならない場所・言葉•行為。②してはならないこと。

❸ナイーブ(naive)
生れたままの清らかで、素直なさま。うぶ。純真。素朴。

❹ ホスピス(hospice)
死期の迫った患者に安らぎを与え、看護する病院。

❺ ターミナルケア(terminal care)
末期医療。

❻ セラピー(therapy)
薬や手術によらない治療。ここでは、心理療法のこと。

❼告解
•罪を司祭に告白して神に許しを求める儀式。

❸波平恵美子(1942 —)
文化人類学者。

❾ バツクボーン(backbone)
後ろ盾。

啲 メンタルケア(mental care)
心理面での手当て。

❿ ポジティブ(positive)
肯定的。積極的。

第6課TUGUMI——告白—— 115

®実存
哲学用語。今ここに現実に存在する人間の主体的なあり方。

® エロス(eros)
ギリシャ語。愛。本文では、人間的な愛のこと。

胎 エゴイズム(egoism)
利己主義。

|学習の手引き

❶ 本文中の次の例は、論の展開の上でどういう役割を果たしているか、考えてみよう。
1) 日本在住のあるアメリカ人ジャーナリストの意見
2) 波平恵美子の意見
3) 「癌告知」の意識調査

❷ 次の点について、日本とアメリカとではどのように違うか、本文に即してまとめて
みよう。
1) 宗教のあり方
2) 「自己」のあり方
3) 真実のわかり方

❸ 日本で「癌告知」一般化しない「あるポジティブな文化的理由」とはどういうもの
か、考えてみよう。

❹「癌告知」について、筆者の考えをまとめながら、自分自身の考えを話し合ってみよ
う。

116 日语综合教程第八册

笛"/"锂
营!I亍"

新しいパラダイ厶を求めて

I…本文

•村上隔一林

今日科学を否定する立場は、現代の我々の迎えている危機的状況の原因を、
科学技術の本質に求め、その廃棄と出直しを鋭く要求しようとするものであ
る。しかし、従来の科学を支える枠組みを根こそぎ捨て去ることは、決して
得策とは思われないし、だいいちそのような事態は、我々人類全体の一種の
生理的記憶もしくは蓄積とでも呼ぶべきものによって、本来不可能なはずで
ある。しかし、ここで論じようとする立場は、あえてその不可能に挑もうと
さえするものである。

そうしたラディカリズムが生まれてくる事情はわからないわけではない。
というよりも、それほどまでに事態は深刻なのだ、とも言える。もっとも、歴
史の上で、この種の反合理主義、反科学主義、反近代主義は初めて今日現れ
てきたものではない。元来西欧近代とは決して近代主義、合理主義の一枚岩
ではないのであって、むしろ近代主義、合理主義が深化すればするほど、そ
のカウンター・バランスとしての非合理主義も、盾の両面のごとくに深化す
るのである。西欧近代およびその延長である現代は、この両者の緊張関係の
中にあると言ってもよい。

しかし、こうした西欧近代文化圏の内部からする、西欧近代文化に対する
否定への契機は、完全な自己否定となることなく、その根底にある近代主義
は、ついに脅かされずにごく最近まで健在であった。そればかりではなく、
空間的に見ればごくわずかな地域にすぎない西欧は、地球上のあらゆる非西
欧文化圏を、「近代化」し、「西欧化」する、言い換えれば、その価値観と、
認識論と、方法論と、実践のためのマニュアルの総体を、それらの地域が受
け入れてしかるべきだ、と考えてきた。この信念は、ひとり西欧圏のみが独
断的に持っていたわけではなく、大げさに言えば、地球全体が等しく共有し
ていた。それゆえにこそ、近代西欧の中心であった科学技術の普遍性、絶対
性は揺らいだことがなかった。それが一種の虚妄であったことは、私も認め

第7課 新しいパラダイムを求めて 117

よう。
だが、今日一般に蔓延する(かのように言われる)「反近代主義」には、そ

のことをたとえば東洋思想との比較と短絡させて 、「西では駄目だから、東へ
乗り換える」というような、言ってみれば「政権交代主義」に近いものが多
いように思われる。「近代主義」や科学の根こそぎの否定が、こうした西と東
の「政権交代」によって危機を乗り切ろうという発想に由来するものである
限り、私はむしろそれに与しない。

現在でも、多くの科学者・技術者は、環境汚染にせよ、エネルギー問題に
せよ、これまでに我々が持ち合わせている知識と技術を使って、その解決に
努力しているし、逆に言えば、これまでに我々が獲得した知識自体が、そう
した危機を予見し警告を発することを可能にしているのでもある。それゆえ、
我々は、新しい選択肢を探す努力を惜しまないと同時に—— しかもその選択
肢は、従来の枠組みと完全に交代しおおせるようなものでなItれ^な^ない
必然性はない——、これまでの枠組みの中で最善を尽くすほかはなく、それ
はそれなりに、多くの成果を上げてきたし、これからも上げるはずである。し
かし、そのことだけが、私が「政権交代主義」を肯んじない理由ではない。

第一には、現在横行する反科学主義の中には、自然と人間とに対して、き
わめて保守的な固定化、観念化を行い、その観念化された自然と人間を指標
として、現状を悪と断じ、その悪をもたらした罪を、西欧近代に根を持つ科
学技術にかぶせる、という段取りを踏んでいるものが多い、という点を指摘
できる。

我々が自然保護だとか、環境保存だとか言う場合、保護され保存される自
然や環境をいったいどのように規定すればよいのだろうか 。今日の議論では、
しばしば、それが、トンボやカブトムシがふんだんに群生し 、川には魚があ
ふれ、空が青く、緑濃き山に恵まれた絵はがきのごとき姿として描かれる。私
自身個人的に言えば、そうした「自然」に郷愁を感じる人間の一人である 。し
かし、そのような「自然」の姿は、歴史的に見ても、実はいつも実現されて
いたわけではなく、地球上どこを探しても、むしろ見つけることのできない
観念の中で理想化され固定化された「自然」にすぎない。

こうした観念化された「自然」からは、洪水や旱跋や害虫やしもやけや肺
炎は当然のように抜け落ちている。終戦直後、国敗れて山河はあり、そのと
きの空はたしかに今より青く川は澄んでいた。しかし同時に冬は暖房もなく
肺炎にかかればそのまま死を意味したし、しらみをはじめとする害虫類が伝
染病を媒介し、雨は洪水を、旱戲は飢饉を意味し、子供たちは毎冬しもやけ
とあかぎれに泣いた。

そうした状況から脱することに伴って払わなければならなかった対価の一
っが、水俣病であり、四日市ゼンソクであった、ということは痛ましい事実

118日语综合教程 第八册

である。そしてその事実は、当該企業のみならず、我々の一人一人が自分の
痛みとしてかみしめておかねばならない。だが、自然全般について言うなら、
観念化された絵はがきの自然像には、自然の中で生きている人間存在が欠落
していることは確かだ。

そしてこのことは直ちに第二の点を探り当てる。それは、自然は、元来人
間をもその中に含んだ概念だ、ということを、ともすれば我々は忘れがちに
なる、という点である。日本では、自然を「自然に放置された」「人為を加え
ない」ものと解釈する傾向がある。それゆえ、人間が自然に加えるいかなる
改変も、それ自体本来悪となる、という形で、「自然」が絶対価値と見なされ
ることにもなりかねない。だが、西欧的発想に立てば、人間も自然の一部(被
造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不
自然と受け取るのである。

よく言われるように、「文化」の西欧的起源は「耕す」ことである。人間を
含まない「自然」は「耕す」ことはない。とすれば、「文化」は「自然」と対
立させられることが多いが、実は、「文化」とは、人間を含む「自然」が果た
した自^な変容ではあっても、「自然」の外にあるものではない。とすれば、
人間存在自体が必然的に「自然」を百然に変容させたのである。

先の「反近代主義」は、この根本的な認識において欠けるところがある、と
いうのが私の見解である。そしてその点で問われれば、私は、あえて西欧的
見解の側に立つと答えざるを得ない。そのことが、危機の克服にも有効だと
信ずるからにほかならない。その意味では、一般の風潮に逆行するかに見え
ても、我々はむしろ今日、人間の理性と意志によって、我々の目的に向かつ
て自然を強力に支配するという西欧流の考え方を、もう一度ーーというより
も我々はこれまでに実は一度もそれを血肉化したことがなかったのだが——
積極的に検討してみる必要があるのではないかとさえ思う。

現今の「反科学主義」に私が感ずる一種のいかがわしさのもう一つの根元
は、意図するとせざるとにかかわらず )そこにある巨大な「マッチ•ポンプ」
が潜んでいる、というところにある。かつて地球上の一局地にすぎなかった
西欧文化圏は、自分たちの掲げた松明が全世界を照らすようにと、非西欧圏
の草原にもその火を放った、しかし、その火の粉や煙が自分たちを脅かすよ
うになったとき、先進諸国はあわててポンプで水をかけ始めた、という現状
認識は、必ずしも奇矯な解釈とは言えないだろう。ろまり、現時点での「反・
科学技術政策」の採用は、開発途上国の「後進性」を現段階で凍結する、と
いう対価において、先進諸国の「先進性」をも現段階で凍結ーー維持すると
いう結果になるのである。これはやはりいかがわしいと言えないか。

しかし‘、だからといって、すべての「反近代主義」を一視同仁に否定して
しまうことができないのも確かな事実である。今日我々が直面している問題

第7課新しいパラダイムを求めて 119

の基本的特徴は、それらが文字どおり「グローバル」だという点である。エ
ネルギー問題、環境汚染問題、人口問題、食糧問題、いずれを取り上げても、
単に一つの限局された視点から判断したり、処理したりすることができない
性格のものである。

その点を勘案すれば、我々の執るべき道は、何よりもまず、常に地球全体
の規模でものを見据えることである。言ってみれば、先に私はそういう見方
には与しないと述べたような自然観を日本人が備えがちであるということも 、
その他もろもろの共時的に地球上に存在する事態をも、一望のもとに納める
だけの鳥の目視角(バードアイ・ビュウ)を持たなければならない。

だが、そういうメタ地域的な鳥の目視角は、持つだけでは不十分である。そ
の視角から得られた知識を、従前のような時間貫通的な視角から得られた知
識と協合させ、地球的な規模での自然制御に向かわせなければなるまい。し
かも、ここでも共時的感覚が必要になる。なぜなら、そのような地球的規模
での自然制御の対象は、これまでの記述でも明らかなように、我々が考えが
ちなあの人間の営みを含まない「自然」ではなく、また個人、家庭、地域住
民などの小規模な人間を含むだけではなく、国家、民族、文化圏などの一切
を包含した文字どおり総体としての「自然」だからである。ここに要求され
る「文化」こそ、ある意味で、「自然」をも包み込む「文化」—— これまでの
「文化」が「自然」内的存在であったのに反して——言い換えれば、「超文化」
< meta-culture>とでも言うべきものであろう。

このような「超文化」を支える新しい技術は、単に従来のごとき性格を備
えるだけでは足りず、それに加えて、政治・思想•倫理など人間に関するあ
らゆる側面を、一つの普遍的合意へと導いていくような種類のものでなけれ
ばなるまい。そのような「技術」を手に入れることは、個人の存在の限界を
超えて、人類史の収斂点として自^に達成されるものであろう、と言っても、
今日個人個人の必死の暗中模索の試行錯誤を軽んじることにはなるまい。逆
に言えば、人類史がその収斂点に立つことができなければ、人類は破滅の運
命をたどることがはっきりしているわけであり 、それが地球規模における最
後の「自然選択」であるのかもしれない。

『高等学校改訂版現代文2』による

注釈

❶ 村上 陽一郎(むらかみ よういちろう)(1936—)
科学史家•科学哲学者。東京都生まれ。1960年代以降の新しい科学認識を踏まえながら、近代科

120日语综合教程第八册

学の位置づけを試みている。著書に『西欧近代科学』『日本近代科学の歩み』などがある。
❷ パラダイA (paradigm)

その時代に支配的な思考の枠組み。
❸ ラディカリズA (radicalism)

急進主義。
❹ カウンター・バランス(counter balance)

釣り合いをとるもの。
❸ マニュアル(manual)

手引き。
❻しらみ

シラミ目に属する昆虫の総称。
〇水俣病

有機水銀中毒による神経疾患。四肢の感覚障害•運動失調•言語障害•視野狭窄•振るえなどを
おこし、重症では死亡する。1953〜1959年に水俣地方で、工場廃液による有機水銀に汚染した魚
介類を食したことにより集団的に発生。1964年ごろ新潟県阿賀野川流域でも同じ病気が発生(第
二水俣病)。
❽四日市ゼンソク

三重県四日市市塩浜地区周辺で、石油コンビナートから排出された硫黄酸化物が原因で発生した
公害病。ぜんそくに似た症状を伴う慢性気管支炎。
❾ マッチ・ポンプ(match pomp)
和製英語。自分で意図的に起こした問題を、自分でもみ消すこと。
グローバル(global)
世界的な。
®バードアイ・ビュウ

(英)bird's eye viewo
値 メタ(meta)

ここでは、「超える」という意味。

|.新しい言葉

根こそぎ(ねこそぎ) [名・副] ①根までこそげること。すっかり抜き取ること。
ねこぎ。②(副詞的に用いて)少しも余すところ
一枚岩(いちまいいわ) [名] ・なく。ことどとく。
一枚続きのような、裂け目のない大きな岩。強力
与する(くみする) [自サ変] な団結・組織などにたとえる。
おおせる(果せる) [接尾] 仲間に加わる。味方する。同意する。
(動詞の連用形について)「しとげる」「果たす」の
肯んじる(がえんじる) [他下一]
启、〇
承諾する。聞き入れる。引き受ける。「肯んずる」
(サ変)の上一段化。

第7課 新しいパラダイムを求めて 121

しもやけ(霜焼け) [名] 寒さのために皮膚の血管が麻痺(まひ)し、赤紫
あかぎれ(戰) 色にはれたもの。凍瘡(とうそう)。霜腫(ば)れ。
いかがわしい
松明(たいまつ) [名] 冬・寒さなどのため手足の皮膚が乾燥して裂け
る状態。あかがり。
勘案(かんあん)
[形] 本当かどうか疑わしい。物事の内容、人の正体な
どが、あやしげだ。信用できない。

[名] (タキマツ〔焚松〕の音便)松のやにの多い部分
または竹•葦などを束ね、これに火を点じて、屋
外の照明用としたもの。

[名•他サ変] あれこれを考え合わせること。

言葉と表現

ーしか苦ざき—… ........... .—..—一一ー—一ー一一… .... …:

「しかるべき」は、形容詞「しかるべし」の連体形。

/, 「〜てしかるべきだ」の形で、「そうあるのが当然だ」の意味を表す。
❶ そればかりではなく、空間的に見ればごくわずかな地域にすぎない西欧
は、地球上のあらゆる非西欧文化圏を、「近代化」し、「西欧化」する、
言い換えれば、その価値観と、認識論と、方法論と、実践のためのマ
ニュアルの総体を、それらの地域が受け入れてしかるべきだ、と考えて
きた。
❷ 罰せられてしかるべきだ。
❸感謝してしかるべきだ。
❹山嵐は有難いと思って然るべきだ。

2.形容詞的に使う。「ふさわしい」「適切な」の意。
❶しかるべき人を仲に立てる。
❷ しかるべき考慮を払う。

匕9〜は〜なり !

「〜は〜なり」は同じ名詞を繰り返す形で、その人や物に限界や欠点があると
いう含みがあり、「それを認めた上でそれに相当した、それにふさわしい」とい
う意味を表す。

❶これまでの枠組みの中で最善を尽くすほかはなく、それはそれなりに、多く

122日语综合教程第八册

の成果を上げてきたし、これからも上げるはずである。
❷ 彼らは彼らなりにいろいろ努力しているのだから、それを認めてやってほし

い。
❸ あの人はあの人なりに一生懸命生きてきたのよ。
〇この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。
❺ 子どもには子どもなりの考えがある。

參—とも林底................ 一.................一—..........——j

「ともすれば」は副詞的に使われる。何かのきっかけでそういうことが起こり
やすいという意味を表す。望ましくない事態が起こる場合が多く、「〜がちだ」
「〜かねない」などといっしょに使われることが多い。「ともすると」とも言う。

❶ それは、自然は、元来人間をもその中に含んだ概念だ、ということを、とも
すれば我々は忘れがちになる、という点である。

❷ 夏はともすれば睡眠不足になりがちである。
❸ 核兵器は、ともすると人類の破滅を引き起こしかねない危険性をはらんでい

る。
❹日本人が東南アジアなどで自己中心的欲求が満されないと往々にしてそれを

優越感にすりかえたり、西欧においては、ともすれば劣等感にさいなまれる
という現象はこの点からも分析できるのである。

匕或・〜かにみえるー——・一…一—•一.—…—.一… ..... 一—— .......... .一…j

「〜かにみえる」または「〜かのようにみえる」は、「表面的にはそのように
感じられる、思われる」という意味を表す。「本当のことはわからないが、表面
的はそのように見える」「実際はそうでない可能性がある」ということを述べる
場合に使われる。話しことばでは、「ようにみえる」「みたいにみえる」を使う。

❶ その意味では、一般の風潮に逆行するかに見えても、我々はむしろ今日、人
間の理性と意志によって、我々の目的に向かって自然を強力に支配するとい
う西欧流の考え方を、もう一度——というよりも、われわれはこれまでに実
は一度もそれを血肉化したことがなかったのだが—— 積極的に検討してみる
必要があるのではないかとさえ思う。

❷彼は他人の非難などまったく意に介していないかにみえる。
〇景気の悪化は一応おさまったかにみえるが、まだまだ安心はできない。

第7課 新しいパラダイムを求めて 123

、学習の手引き

❶「現在の我々の迎えている危機的状況」とは、具体的にどういうことか、本文に
即してまとめてみよう。

❷ 筆者の「反科学主義」に対する疑問を、ニ点に分けて整理してみよう。
❸本文中の次の箇所で、下線部の言葉はどういう意味で使われているか、考えてみよ

う。
1) 蟀の中で生きている人間存在
2) 「自然」をも包み込む「文化」
3) 「超文化」を支える新しい技術
❹ 筆者の「科学技術」に対する考え方について各自どう思うか、話し合ってみよう。

練習

ー、本文の内容に基づいて、次の質問に答えなさい。
1. 「我々人類全体の一種の生理的記憶もしくは蓄積」とは、どういうものか。
2. 「あえてその不可能に挑もうとさえするものである」の「その」が指す内容を文
中から抜き出せ。
3. 「それほどまでに事態は深刻なのだ」とあるが、どんな事態なのか。ここより前
の文中から適した語句を抜き出せ。
4. 「この両者」がさしているものは、何と何か。
5. 「その根底にある近代主義は、ついに脅かされずにごく最近まで健在であった」
から、今日の「反近代主義」がどんなものだとわかるか。
6. 「地球全体」とは、本文に即して言えば、どことどこの地域か。
7. 「西では駄目だから、東へ乗り換える」とは、どういうことか。
8. 「新しい選択肢」とは、具体的にどんなものか。
9. 「絵はがきのごとき姿」の「自然」とは、どんなことの例としてあげられている

, のか。文中から20字の言葉を抜き出せ。
10. 「終戦直後……あかぎれに泣いた。」という内容を通して、筆者は何を言おうと
しているのカ、。
11. 「そうした状況から脱すること」とあるが、そのために主として必要だったのは
どんなことか。
12. 「このことは直ちに第二の点を探り当てる」とあるが、(1)「このこと」、(2)「第二
の点」とは、それぞれ何をさしているか。文中の語句を抜き出せ。
73.「『耕す』こと」と同じ意味で使われている言葉を同じ段落中から抜き出せ。
14.「『文化』は『自然』と対立させられることが多い」とは、日本、西欧どちらの

124日语综合教程第八册

自然観か。
75「先の『反近代主義』は、この根本的な認識において欠けるところがある」とあ

るが、「この根本的な認識」とは、どういう認識か。
16. 「マッチ・ポンプ」がさしている具体的内容とは何か。文中からさがし、最初と

最後の5字を抜き出せ。
17. (1)「自分たちの掲げた松明が全世界を照らす」、⑵「その火の粉や煙」、⑶「ポン

プで水をかけ始めた」は、それぞれ何をたとえたものか。
18. 「これはやはりいかがわしいと言えないか。」とは、どんな点をさしてこう言っ

ているか。
19. 「先に」筆者が「そういう見方には与しないと述べたような自然観」とは、どう

いう「自然観」か。
2〇.「ここでも共時的感覚が必要になる」とあるが、なぜか。
21.「地球的規模での自然制御」を行うためには、どんな知識が必要なのか。
22•「超文化」とは、どんなものか。
23. 「従来のごとき性格」とは、具体的にどういう「性格」か。
24. 「個人個人の必死の暗中模索の試行錯誤」には、筆者のどんな思いが込められて

いるか。
25. 「最後の『自然選択』」と言っているのはなぜか。

二、次の日本語を中国語に訳しなさい。
1. 今日科学を否定する立場は、現代の我々の迎えている危機的状況の原因を、科
学技術の本質に求め、その廃棄と出直しを鋭く要求しようとするものである。し
かし、従来の科学を支える枠組みを根こそぎ捨て去ることは 、決して得策とは
思われないし、だいいちそのような事態は、我々人類全体の一種の生理的記憶
もしくは蓄積とでも呼ぶべきものによって、本来不可能なはずである。
2. 現今の「反科学主義」に私が感ずる一種のいかがわしさのもう一つの根元は、意
図するとせざるとにかかわらず、そこにある巨大な「マッチ・ポンプ」が潜ん
でいる、というところにある。かつて地球上の一局地にすぎなかった西欧文化
圏は、自分たちの掲げた松明が全世界を照らすようにと、非西欧圏の草原にも
その火を放った、しかし、その火の粉や煙が自分たちを脅かすようになったと
き、先進諸国はあわててポンプで水をかけ始めた、と言う現状認識は、必ずし
も奇矯な解釈とは言えないだろう。つまり、現時点での「反•科学技術政策」の
採用は、開発途上国の「後進性」を現段階で凍結する、という対価において、先
進諸国の「先進性」をも現段階で凍結—— 維持するという結果になるのである。
これはやはりいかがわしいと言えないか。

第7課 新しいパラダイムを求めて 125

三、次の文章を読んで後の問に答えなさい 。
人間の幸福とは、幸福な生き方とは、いったいどういうものであろうか。①この

ような疑問を、世界中の人間がみな持ち始めている。どうやら地球上の人間全部
が、今まで自分たちを幸福にしてくれると信じていたものが、必ずしも、そうとば
かりは受け取れぬということに気づき始めたのである。一口に言えば、現代文明と
いうものに対する一種の不信感が、多かれ少なかれ、人間全部の心をとらえ始めた
のである。(②)どうして人間は今まですばらしい、すばらしいと賛辞ばかりを
呈してきたものに対して、はたしてこれでいいのかという不信の念をいだくように
なったのであるか。それは人間の一人一人が、自分の失いつつあるものに気づき始
めたからである。誰に教えられたのでもなく、自分自身の体験において、失った
ものに気づき始めたのである。今や人間はその多くが、人類の将来というものに
(③)懸念し、憂慮し、論議しなければいられなくなってしまったのである。

私は自分が三つのものを失い、今なお失いつつあることを痛感する。一つは夢で
あり、驚きである。夢がなくなり、驚きがなくなるということは困ったことである。
現在、我々は東京からモスクワに十時間足らずで運ばれることもできるし、東京・
大阪間は三時間の距離になってしまった。それ(④)月の表面に降り立つ人間さ
え現れるようになったのである。今後どのようなことが現実となって現れるか見当
は付かない。(⑤)、こうしたことには、その反面、また副作用もある。一度行
われてしまえば、もう驚かなくなるということである。月面に人間が降り立つ一瞬
の興奮は、今やもう過去のものである。東京・モスクワ間を十時間で飛ぶことは別
に何の驚きも感じない当然のこととなってしまった。人間の生んだ科学は、日一日
と育っていく。このへんで成長を止めようというわけにはいかない。人類が何千年
も抱いてきた夢は次々に科学というばくに食われていくだろう。

第二に失ったものは、きわめて当然なことながら、神である。神に代わったもの
が科学であり、神はその神聖な椅子を、科学にあけ渡してしまったかっこうであ
る。もう過去の人間を縛っていた捷は、そのままの形においては生きることはでき
ないのである。信仰上の神は、否応なしに鳴りを静めさせられているのである。今
日、人間精神の荒廃が口にされているが、新しい神が現れるまでどうすることもで
きないだろう。怖れをもまた人間は失ってしまったのである。

第三に失ったものは、おのれが生命の管理権である。今や我々はおのれが生命を
おのれが管轄下に置くことが難しくなってきている。車に乗ればもちろんのこと、
車に乗らなく(⑥)、おのれが生命の保証は他にゆだねなければならない状態で
ある。

人間はこうした大きなものを失いながら、一方で他の大きなものを与えられてい
る。物質文明、消費文化の享受である。特に我々日本人の場合は、この二、三年⑦
それをフルに受容できる状態に置かれようとしている。経済的にゆとりのある生活
が日本人全部の生活を急速に変えつつある。結構なことであるが、困ることもあ
る。(⑧)私は人間が失ったものを取り戻さなければならぬと思う。と言って昔

126 日语综合教程第八册

の夢が戻ってこようはずはない。人間は新しい夢を、新しい神を持たねばならぬ。
そしておのれが生命の管理権も新しい形において取り返さなければならぬ。それら
がいかなるものであるか、誰にも分かっていない。ただはっきりしていることは、
人間の幸福が必ずしも現代文明の進行に平行して増大していくものではないであろ
うということである。(⑨)、また右に述べた三つの失ったものを取り返すこと
なしには成立しないであろうということである。

(井上 靖『幸福の探求』より)

OD 下線部①「このような疑問を、世界中の人間がみな持ち始めている」とある
が、なぜ疑問を持ち始めたのか、文中の言葉で答えなさい。

碰 (②)に当てはまる最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A.それには B.それなら C.それから D•それでは

dB (③)に当てはまる最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A・関して B・ついて C・対して D・とって

碰 (④)に当てはまる最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A.でも B.では C.なのに D.どころか

dS (⑤)に当てはまるi最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A.で B・だから じが D・つまり

(ED (⑥)に当てはまる最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A・て B・ても C.ては D・たら

dD 下線部⑦「それ」が指している部分を次から一つ選びなさい。

A, 日本人全部の生活 B,物質文明•消費文化

C・ゆとりのある生活 D,与えられた大きなもの

(ED (⑧)に入れる文として最も適当なものを、次から一つ選びなさい。

A・恩恵を受ける変わりに失うものも多いからである。
B, 科学技術の進歩が急でついていけないからである。
c,文明の発達について誰も予想できないからである。
D,経済成長の急速な変化に遅れがちになるからである。

碰 (⑨)に当てはまる最も適当な言葉を次から一つ選びなさい。

A・だから B.しかし C.それで D.そして

第7課 新しいパラダイムを求めて 127

lMioj 文中、人間の長年の願いが現実のものとなっていくことを表現している文が
あるが、それは次のどれなのか。一番適当なものを一つ選びなさい。
A・人間の生んだ科学は、日一日と育っていく。
B・今後どのようなことが現実となって現れるか見当は付かない。
c•おのれが生命の管理権も新しい形において取り返さなければならぬ 。
D•人類が何千年もいだいてきた夢は次々に科学というばくに食われていく
だろう。

LUjj 筆者は、人間が幸福な生き方をするためにどうしなければならないと言って

いるか、筆者の考えを簡潔にまとめて答えなさい。

|. .読み物

現代日本の開化
ー明治44年8月和歌山において述——

•夏自球石

はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴き
になるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承れば昨日も何か演説会が
あったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多
少は流行過の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。
が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。ことにただいま牧君
の紹介で漱石君の演説は迂余曲折の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞を
ちょうだいした後に出て同君の吹聴通りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙
を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもそ
の妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにく
い羽目に陥ってしまう訳であります。実はここへ出て参る前ちょっと先番の牧君
に相談をかけた事があるのです。これは内々ですが思い切って打明けて御話しし
てしまいます。と云うほどの秘密でもありませんが、全くのところ今日の講演は
長時間諸君に対して御話をする材料が不足のような気がしてならなかったから、
牧さんにあなたの方は少しは伸ばせますかと聞いたのです。すると牧君は自分の
方は伸ばせば幾らでも伸びると気丈夫な返事をしてくれたので、たちまち親船に
乗ったような心持になって、それじゃア少し伸ばしていただきたいと頼んでおき
ました。その結果として冒頭だか序論だかに私の演説の短評を試みられたのはも

128日语综合教程第八册

ともと私の注文から出た事ではなはだありがたいには違ないけれども、その代り

いや にく

厭にやり悪くなってしまった事もまた争われない事実です。元来がそう云う情な

い依頼をあえてするくらいですから曲折どころではない、真直に行き当ってピタ

リと終いになるべき演説であります。なかなかもって抑揚頓挫波瀾曲折の妙を極

めるだけの材料などは薬にしたくも持合せておりません。とそう言ったところで

何もただボンヤリ演壇に登った訳でもないので、ここへ出て来るだけの用意は多

少準備して参ったには違ないのです。もっとも私がこの和歌山へ参るようになっ

たのは当初からの計画ではなかったのですが、私の方では近畿地方を所望したの

で社の方では和歌山をその中へ割り振ってくれたのです。御蔭で私もまだ見ない

土地や名所などを捜る便宜を得ましたのは好都合です。そのついでに演説をする

—— のではない演説のついでに玉津島だの紀三井寺などを見た訳でありますから

これらの故跡や名勝に対しても空手では参れません。御話をする題目はちやんと

東京表できめて参りました。

その題目は「現代日本の開化」と云うので、現代と云う字は下へ持って来ても

上へ持って来ても同じ事で、「現代日本の開化」でも「日本現代の開化」でも大

して私の方では構いません。「現代」と云う字があって「日本」と云う字があっ

て「開化」と云う字があって、その間へ「の」の字が入っていると思えばそれだ

けの話です。何の雑作もなくただ現今の日本の開化と云う、こういう簡単なもの

です。その開化をどうするのだと聞かれれば、実は私の手際ではどうもしょうが

ないので、私はただ開化の説明をして後はあなた方の御高見に御任せするっもり

であります。では開化を説明して何になる?とこう御聞きになるかも知れない

が、私は現代の日本の開化という事が諸君によく御分りになっているまいと思

う。御分りになっていなかろうと思うと云うと失礼ですけれども、どうもこれが

一般の日本人によく呑み込めていないように思う。私だってそれほど分ってもい

ないのです。けれどもまず諸君よりもそんな方面に余計頭を使う余裕のある境遇

におりますから、こういう機会を利用して自分の思ったところだけをあなた方に

聞いていただこうというのが主眼なのです。どうせあなた方も私も日本人で、現

代に生れたもので、過去の人間でも未来の人間でも何でもない上に現に開化の影

響を受けているのだから、現代と日本と開化と云う三つの言葉は、どうしても諸

君と私とに切っても切れない離すべからざる密接な関係があるのは分り切った事

ですが、それにもかかわらず、御互に現代の日本の開化について無頓着であった

り、または余りハッキリした理会をもっていなかったならば、万事に勝手が悪い

訳だから、まあ互に研究もし、また分るだけは分らせておく方が都合が好かろう

と思うのであります。それについては少し学究めきますが、日本とか現代とかい

う特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立してその性質を調べる必要が

あると考えます。御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返して
いるけれども、はたして開化とはどんなものだと煎じつめて聞き就されて見る

と、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたり

第7課新しいパラダイムを求めて 129

あるいはもってのほかに漠然と曖昧であったりするのはよく有る事だから私はま
ず開化の定義からきめてかかりたいのです。

もっとも定義を下すについてはよほど気をつけないととんでもない事になる。
これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたも
のがピタリと糊細工のように硬張ってしまう。複雑な特性を簡単に纏める学者の
手際と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂濶を惜まなければならない
ような事が彼らの下した定義を見るとよくあります。その弊所をごく分りやすく

わざ

ー 口に御話すれば生きたものを故と四角四面の棺の中へ入れてことさらに融通が
利かないようにするからである。もっとも幾何学などで中心から円周に到る距離
がことごとく等しいものを円と云うというような定義はあれで差支ない、定義の
便宜があって弊害のない結構なものですが、これは実世間に存在する円いものを
説明すると云わんよりむしろ理想的に頭の中にある円というものをかく約束上と
りきめたまでであるから古往今来変りつこないのでどこまでもこの定義一点張り
で押して行かれるのです。その他四角だろうが三角だろうが幾何的に存在してい
る限りはそれぞれの定義でいったん纏めたらけっして動かす必要もないかも知れ
ないが、不幸にして現実世の中にある円とか四角とか三角とかいうもので過去現
在未来を通じて動かないものははなはだ少ない。ことにそれ自身に活動力を具え
て生存するものには変化消長がどこまでもっけ纏っている。今日の四角は明日の
三角にならないとも限らないし、明日の三角がまたいつ円く崩れ出さないとも云
えない。要するに幾何学のように定義があってその定義から物を挎え出したので
なくって、物があってその物を説明するために定義を作るとなると勢いその物の
変化を見越してその意味を含ましたものでなければいわゆる杓子定規とかでいつ
こう気の利かない定義になってしまいます。ちょうど汽車がゴーツと馳けて来
る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪い刹那の光景を写真に
とって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏に
写し得たごとく吹聴すると一般である。なるほどどこから見ても汽車に違ありま
すまい。けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちに
は出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶してい
ると云わなければなりますまい。御存じの琥珀と云うものがありましょう。琥珀
の中に時々蠅が入ったのがある。透かして見ると蠅に違ありませんが、要するに
動きのとれない蠅であります。蠅でないとは言えぬでしょうが活きた蠅とは云え
ますまい。学者の下す定義にはこの写真の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮かに見え

るが死んでいると評しなければならないものがある。それで注意を要するという
のであります。つまり変化をするものを捉えて変化を許さぬかのごとくピタリと
定義を下す。巡査と云うものは白い服を着てサーベルを下げているものだなどと
てんからきめられた日には巡査もやりきれないでしょう。家へ帰って浴衣も着換
える訳に行かなくなる。この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可
哀想だ。騎兵とは馬に乗るものである。これも御 尤には違ないが、いくら騎兵

130 日语综合教程第八册

だって年が年中馬に乗りつづけに乗っている訳にも行かないじやありませんか。
少しは下りたいでさア。こう例を挙げれば際限がないから好加減に切り上げま
す。実は開イgの定義を下す御約束をしてしやべっていたところがいつの間にか開
化はそっち證けになってむずかしい定義論に迷い込んではなはだ恐縮です。がこ

のくらい注意をした上でさて開化とは何者だと纏めてみたら幾分か学者の陥りや
すい弊害を避け得られるしまたその便宜をも受ける事ができるだろうと思うので
す。

でいよいよ開化に出戻りを致しますが、開化と云うものも、汽車とか蠅とか巡
査とか騎兵とか云うようなもののごとくに動いている。それで開化の一瞬間を
とってカメラにピタリと入れて、そうしてこれが開化だと提げて歩く訳には行き
ません。私は昨日和歌の浦を見物しましたが、あすこを見た人のうちで和歌の浦
は大変浪の荒い所だと云う人がある。かと思うと非常に静かな所だと云う人もあ
る。どっちがよいのか分らない。だんだん聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い
時に行き、一方は非常に静かな時に行った違から話がこう表裏して来たのであ
る。固より見た通なんだから両方とも嘘ではない。がまた両方とも本当でもな
い。これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。が、役に立つと同
時に害をなす事も明かなんだから、開化の定義と云うものも、なるべくはそう云
う不都合を含んでいなパように致したいのが私の希望であります。が、そうする
とボンヤリして来る。恨むらくはボンヤリして来る。けれどもボンヤリしてもほ
かのものと区別ができればそれでよいでしょう。さっき牧君の紹介があったよう
に夏目君の講演はその文章のごとく時とすると門口から玄関へ行くまでにうんざ
りする事があるそうで誠に御気の毒の話だが、なるほどやってみるとその通り、
これでようやく玄関まで着きましたから思いきって本当の定義に移りましょう。

開化は人間活力の発現の経路である。と私はこう云いたい。私ばかりじやな
い、あなた方だってそういうでしょう。もっともそう云ったところで別に書物に
書いてある訳でも何でもない、私がそう言いたいまでの事であるがその代り珍ら
しくも何ともない。がこれすこぶる漠然としている。前口上を長々述べ立てた後
でこのくらいの定義を御吹聴に及んだだけではあまり人を馬鹿にしているようで
すが、まあそこから定めてかからないと曖昧になるから、実はやむをえないので
す。それで人間の活力と云うものが今申す通り時の流を沿うて発現しつつ開化を
形造って行くうちに私は根本的に性質の異った二種類の活動を認めたい 、否、確
かに認めるのであります。

その二通りのうち一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。何か月
並のような講釈をしてすみませんが、人間活力の発現上積極的と云う言葉を用い
ますと、勢力の消耗を意味する事になる。またもう一つの方はこれとは反対に勢
力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫なりだから前のに対して消極的
と申したのであります。この二つの互いに喰違って反の合わないような活動が入
り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。これ

第7課新しいパラダイムを求めて 131

でもまだ抽象的でよくお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の
意味は自ら明瞭になるだろうと信じます。元来人間の命とか生とか称するものは

ぜん

解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前申し
たごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者であ
る以上、この活力が外界の刺戟に対してどう反応するかという点を細かに観察す
ればそれで吾人人類の生活状態もほぼ了解ができるような訳で 、その生活状態の
多人数の集合して過去から今日に及んだものがいわゆる開化にほかならないのは
今さら申上げるまでもありますまい。さて吾々の活力が外界の刺戟に反応する方
法は刺戟の複雑である以上固より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の
来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、
また自ら進んで適意の刺戟を求め能うだけの活力を這裏に消耗して快を取る手段
との二つに帰着してしまうよう私は考えているのであります。で前のを便宜のた
め活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきま
しょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通
用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟に対して起るのでありま
す。従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往の気象を
奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしか
する方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯
一つを司どる大事実から云えばどうしても今私が申し上げたように解釈するより
ほか仕方がないのであります。吾々もお互に義務は尽さなければならんものと始
終思い、また義務を尽した後は大変心持が好いのであるが、深くその裏面に立ち
入って内省して見ると、願くはこの義務の束縛を免かれて早く自由になりたい、
人から強いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾して手軽に済まし
たいという根性が常に胸の中につけまとっている。その根性が取も直さず活力節
約の工夫となって開化なるものの一大原動力を構成するのであります 。

かく消極的に活力を節約しようとする奮闘に対して一方ではまた積極的に活力
を任意随所に消耗しようという精神がまた開化の一半を組み立てている。その発
現の方法もまた世が進めば進むほど複雑になるのは当然であるが、これをごく約
めてどんな方面に現われるかと説明すればまず普通の言葉で道楽という名のつく
刺戟に対し起るものだとしてしまえば一番早分りであります。道楽と云えば誰も
知っている。釣魚をするとか玉を突くとか、、碁を打つとか、または鉄砲を担いで
猟に行くとか、いろいろのものがありましょう。これらは説明するがものはない
ことごとく自から進んで強いられざるに自分の活力を消耗して嬉しがる方であり
ます。なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるの
で、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであ
ります。

この二様の精神すなわち義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約と
また道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消耗とが互に並び進んで、コ

132 日语综合教程第八册

ンガラカッて変化して行って、この複雑極りなき開化と云うものができるのだと
私は考えています。その結果は現に吾々が生息している社会の実況を目撃すれば
すぐ分ります。活力節約の方から云えばできるだけ労働を少なくしてなるべくわ
ずかな時間に多くの働きをしようしょうと工夫する。その工夫が積り積って汽車
汽船はもちろん電信電話自動車大変なものになりますが、元を統せば面倒を避け

たい横着心の発達した便法に過ぎないでしょう。この和歌山市から和歌の浦まで
ちょっと使いに行って来いと言われた時に、出来得るなら誰しも御免蒙りた:い。
がどうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早
く帰りたい。できるだけ身体は使いたくない。•そこで人力車もできなければなら
ない訳になります。その上に贅沢を云えば自転車にするでしょう。なおわがまま
を云い募ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならな
くなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても
是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度
は起らないとも限りません。好んで身体を使って疲労を求める。吾々が毎日やる
散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一
部分なのであります。がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が
下ればちようど好いが、まあたいていはそう旨くは行かない。云いつかった時は
多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫をしなければならな
い。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話に
なる理窟です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならな
いのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわ
がままな了簡、と申しましょうかまたはそうそう身を粉にしてまで働いて生き
ているんじや割に合わない、馬鹿にするない冗談じやねえという発憤の結果が怪
物のように辣腕な器械力と豹変したのだと見れば差支ないでしょう 。

この怪物の力で距離が縮まる、時間が縮まる、手数が省ける、すべて義務的の
労力が最少低額に切りつめられた上にまた切りつめられてどこまで押して行くか
分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽根性の方もまた自由
わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつ
とめどもなく前進するのである。この道楽根性の発展も道徳家に言わせると怪し
からんとか言いましょう。がそれは徳義上の問題で事実上の問題にはなりませ
ん。事実の大局から云えば活力を吾好むところに消費するというこの工夫精神は
二六時中休みっこなく働いて、休みっこなく発展しています。元々社会があれば
こそ義務的の行動を余儀なくされる人間も放り出しておけばどこまでも自我本位
に立脚するのは当然だから自分の好いた刺戟に精神なり身体なりを消費しようと
するのは致し方もない仕儀である。もっとも好いた刺戟に反応して自由に活力を
消耗すると云ったって何も悪い事をするとは限らない。道楽だって女を相手にす
るばかりが道楽じゃない。好きな真似をするとは開化の許す限りのあらゆる方面
に亘っての話であります。自分が画がかきたいと思えばできるだけ画ばかりかこ

第7課新しいパラダイムを求めて133

うとする。本が読みたければ差支ない以上本ばかり読もうとする。あるいは学問
が好だと云って、親の心も知らないで、書斎へ入って青くなっている子息があ
る。傍から見れば何の事か分らない。親父が無理算段の学資を工面して卒業の上
は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計の
方なんかまるで無頓着で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机
に靠れて苦り切っているのもある。親は生計のための修業と考えているのに子供
は道楽のための学問とのみ合点している。こういうような訳で道楽の活力はいか
なる道徳学者も杜絶する訳にいかない。現にその発現は世の中にどんな形になつ
て、どんなに現れているかと云うことは、この競争劇甚の世に道楽なんどとてん
でその存在の権利を承認しないほど家業に励精な人でも少し注意されれば肯定し
ない訳に行かなくなるでしょう。私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ
行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがあります
が、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石
山の巅へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園
の熊のようにあの鉄の格子の檻の中に入って山の上へ上げられた一人でありま
す。があれは生活上別段必要のある場所にある訳でもなければまたそれほど大切
な器械でもない、まあ物数奇である。ただ上ったり下ったりするだけである。疑
もなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ
活計向とは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこうい
う贅沢なものの数が殖えてくるのは誰でも認識しない訳に行かないでしょう。の
みならずこの贅沢が日に増し細かくなる 。大きなものの中に輪が幾つもできて
漏斗みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気のつかなかった方面へだん

だん発展して範囲が年々広くなる。
要するにただいま申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわちできるだけ労

力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、
できるだけ気儘(きまま)に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが 経とな
り緯となり千変万化錯綜して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象
ができるのであります。

そこでそう云うものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでも云い
ましょうか、ちょっと聞くとおかしいが、実は誰しも認めなければならない現象
が起ります。元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ
今日に及んだかと云えば生れながらそう云う傾向をもっていると答えるよりほか
に仕方がない。これを逆に申せば吾人の今日あるは全くこの本来の傾向あるがた
めにほかならんのであります。なお進んで云うと元のままで懐 手をしていては
生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく
発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳
月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしく
もこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔より

134 日语综合教程第八册

も生活が楽になっていなければならないはずであります 。けれども実際はどう
か?打明けて申せば御互の生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざ
る苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。否、開化が進めば進む
ほど競争がますます劇しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。な
るほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化は贏ち得たに相違ない。しかしこの開
化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔げられ
たという訳ではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、
大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じ
ことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違って
いるかと云えば—— あるいは不幸の程度において違っているかと云えば——活カ
消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる
不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。否、昔よりかえって苦
し< なっているかも知れない。昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。
それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。やむをえないからやる。しか
のみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開けていなかったから、こ
うしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸し
たり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死
ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きる
かと云う競争になってしまったのであります。生きるか生きるかと云うのはおか
しゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しな
ければならないという意味であります。活力節減の方で例を引いてお話をします
と、人力車を挽いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮すかの競
争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまってい
るが、どっちへ行っても労力は同じだとは云われません。人力車を挽く方が汗が
よほど多分に出るでしょう。自動車の御者になってお客を乗せれば一もっとも

自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが一短い時間で長い所が走れ
る。糞力はちっとも出さないですむ。活力節約の結果楽に仕事ができる。され
ば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上人力車は自動車に負
けなければならない。負ければ追つかなければならない。と云う訳で、少しでも
労力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現われてここに一つの波瀾を誘う
と、ちょうどー種の低気圧と同じ現象が開化の中に起って、各部の比例がとれ平
均が回復されるまでは動揺してやめられないのが人間の本来であります。積極的
活力の発現の方から見てもこの波動は同じことで、早い話が今までは敷島か何か
吹かして我慢しておったのに、隣りの男が旨そうに埃及煙草を喫んでいるとやっ
ぱりそっちが喫みたくなる。また喫んで見ればその方が旨いに違ない。しまいに
は敷島などを吹かすものは人間の数へ入らないような気がして、どうしても埃及
へ喫み移らなければならぬと云う競争が起って来る。通俗の言葉で云えば人間が
贅沢になる。道学者は倫理的の立場から始終奢侈を戒しめている。結構には違な

第7課 新しいパラダイムを求めて !35

いが自然の大勢に反した訓戒であるからいつでも駄目に終るという事は昔から
今日まで人間がどのくらい贅沢になったか考えて見れば分る話である。かく積極
消極両方面の競争が激しくなるのが開化の趨勢だとすれば、吾々は長い時日のう
ちに種々様々の工夫を凝し智慧を絞ってようやく今日まで発展して来たようなも
のの、生活の吾人の内生に与える心理的苦痛から論ずれば今も五十年前もまたは
百年前も、苦しさ加減の程度は別に変りはないかも知れないと思うのです。それ
だからしてこのくらい労力を節減する器械が整った今日でも、また活力を自由に
使い得る娯楽の途が備った今日でも生存の苦痛は存外切なものであるいは非常と
いう形容詞を冠らしてもしかるべき程度かも知れない。これほど労力を節減でき
る時代に生れてもその忝けなさが頭に応えなかったり、これほど娯楽の種類や範
囲が拡大されても全くそのありがたみが分らなかったりする以上は苦痛の上に非
常という字を附加しても好いかも知れません。これが開化の産んだ一大パラドッ
クスだと私は考えるのであります。

これから日本の開化に移るのですが、はたして一般的の開化がそんなものであ
るならば、日本の開化も開化の一種だからそれでよかろうじやないかでこの講演
は済んでしまう訳であります。がそこに一種特別な事情があって、日本の開化は
そういかない。なぜそうは行かないか。それを説明するのが今日の講演の主眼で
ある。と申すと玄関を上ってようやく茶の間あたりへ来たくらいの気がして驚く
でしょう。しかしそう長くはありません、奥行は存外短かい講演です。やってる
方だって長いのは疲れますからできるだけ労力節約の法則に従って早く切り上げ
るつもりですから、•もう少し辛抱して聴いて下さい。

それで現代の日本の開化は前に述べたー般の開化とどこが違うかと云うのが問
題です。もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西
洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的で
ある。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど
花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い、また外発的とは
外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりな
のです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いてい
るが、御維新後外国と交渉をつけた以後の日本の開化は大分勝手が違います。も
ちろんどこの国だって隣づき合がある以上はその影響を受けるのがもちろんの事
だから吾日本といえども昔からそう超然としてただ自分だけの活力で発展した訳
ではない。ある時は三韓また或時は支那という風に大分外国の文化にかぶれた時
代もあるでしょうが、長い月日を前後ぶつ通しに計算して大体の上から一瞥して
見るとまあ比較的内発的の開化で進んで来たと云えましょう。少なくとも鎖港毋E
外の空気で二百年も麻酔したあげく突然西洋文化の刺戟に跳ね上ったぐらい強烈
な影響は有史以来まだ受けていなかったと云うのが適当でしょう。日本の開化は
あの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほど
の衝動を受けたのであります。これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に

136日语综合教程第八册

展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応
なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのでありま
す。それが一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応えてい
るなんて楽な刺戟ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりで
なく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ
日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。そ
の理由は無論明白な話で 、前詳しく申上げた開化の定義に立戻って述べるなら
ば、吾々が四五十年間始めてぶつかった、また今でも接触を避ける訳に行かない
かの西洋の開化というものは我々よりも数十倍労力節約の機関を有する開化で、
また我々よりも数十倍娯楽道楽の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備し
た開化である。粗末な説明ではあるが、つまり我々が内発的に展開して十の複雑
の程度に開化を漕ぎつけた折も折、図らざる天の一方から急に二十三十の複雑の
程度に進んだ開化が現われて俄然として我らに打ってかかったのである。この圧
迫によって吾人はやむをえず不自然な発展を余儀なくされるのであるから 、今の
日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けては
ぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余
裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の
地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は
通らないのと一般である。私の外発的という意味はこれでほぼ御了解になったろ
うと思います。

そういう外発的の開化が心理的にどんな影響を吾人に与うるかと云うとちょっ
と変なものになります。心理学の講筵でもないのにむずかしい事を申上げるのも
いかがと存じますが、必要の個所だけをごく簡易に述べて再び本題に戻るつもり
でありますから、しばらく御辛抱を願います。我々の心は絶間なく動いている。
あなた方は今私の講演を聴いておいでになる、私は今あなた方を前に置いて何か
言っている、双方共にこういう自覚がある。それに御互の心は動いている。働い
ている。これを意識と云うのであります。この意識の一部分、時に積れば一分間
ぐらいのところを絶間なく動いている大きな意識から切り取って調べてみるとや
はり動いている。その動き方は別に私が発明した訳でも何でもない、ただ西洋の
学者が書物に書いた通りをもっともと思うから紹介ずるだけでありますが、すべ
て一分間の意識にせよ三十秒間の意識にせよその内容が明瞭に心に映ずる点から
云えば、のべつ同程度の強さを有して時間の経過に頓着なくあたかも一つ所にこ
びりついたように固定したものではない。必ず動く。動くにつれて明かな点と暗
い点ができる。その高低を線で示せば平たい直線では無理なので、やはり幾分か
勾配のついた弧線すなわち弓形の曲線で示さなければならなくなる。こんなに説
明するとかえって込み入ってむずかしくなるかも知れませんが、学者は分った事
を分りにく く言うもので、素人は分らない事を分ったように呑込んだ顔をするも
のだから非難は五分五分である。今云った弧線とか曲線とかいう事をそっと砕い

第7課 新しいパラダイムを求めて 137

てお話をすると、物をちょっと見るのにも、見てこれが何であるかと云うことが
ハッキリ分るには或る時間を要するので、すなわち意識が下の方から一定の時間
を経て頂点へ上って来てハッキリして、ああこれだなと思う時がくる。それをな
お見つめていると今度は視覚が鈍くなって多少ぼんやりし始めるのだからいった
ん上の方へ向いた意識の方向がまた下を向いて暗くなりかける。これは実験して
御覧になると分る。実験と云っても機械などは要らない。頭の中がそうなってい
るのだからただ試しさえすれば気がつくのです。本を読むにしてもAと云う言葉
とBと云う言葉とそれからCという言葉が順々に並んでいればこの三つの言葉を
順々に理解して行くのが当り前だからAが明かに頭に映る時はBはまだ意識に上
らない。Bが意識の舞台に上り始める時にはもうAの方は薄ぼんやりしてだんだ
ん識域の方に近づいてくる。BからCへ移るときはこれと同じ所作を繰返すに過
ぎないのだから、いくら例を長くしても同じ事であります。これは極めて短時間
の意識を学者が解剖して吾々に示したものでありますが、この解剖は個人の一分
間の意識のみならず、一般社会の集合意識にも、それからまた一日一月もしくは
一年乃至十年の間の意識にも応用の利く解剖で、その特色は多人数になったっ
て、長時間に亘ったって、いっこう変りはない事と私は信じているのでありま
す。例えて見ればあなた方という多人数の団体が今ここで私の講演を聴いておい
でになる。聴いていない方もあるかも知れないが、まア聴いているとする。そう
するとその個人でない集合体のあなた方の意識の上には今私の講演の内容が明か
に入る。と同時に、この講演に来る前あなた方が経験された事、すなわち途中で
雨が降り出して着物が濡れたとか、また蒸し暑くて途中が難儀であったとかいう
意識は講演の方が心を奪うにつれて、だんだん不明瞭不確実になってくる。また
この講演が終って場外に出て涼しい風に吹かれでもすれば、ああ好い心持だとい

う意識に心を専領されてしまって講演の方はピッタリ忘れてしまう。私から云え
ば全くありがたくない話だが事実だからやむをえないのである 。私の講演を行
住坐臥共に覚えていらっしやいと言っても、心理作用に反した注文なら誰も承知
する者はありません。これと同じようにあなた方と云うやはり一箇の団体の意識
の内容を検して見るとたとえーカ月に亘ろうが一年に亘ろうがーカ月にはーカ月
を括るべき炳乎たる意識があり、また一年には一年を纏めるに足る意識があっ
て、それからそれへと順次に消長しているものと私は断定するのであります 。
吾々も過去を顧みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別の名のつく時代でそ
の時代時代の意識が纏っております。日本人総体の集合意識は過去四五年前には
日露戦争の意識だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領され
た時代もあります。かく推論の結果心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた
長時間の意識の上に応用して考えてみますと、人間活力の発展の経路たる開化と
いうものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個も幾個も繋ぎ合せて進んで
行くと云わなければなりません。無論描かれる波の数は無限無数で、その一波ー
波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、

138 日语综合教程第八册

乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして云
えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。
ちょっとした話が私は今ここで演説をしている。するとそれを御聞きになるあな
たがたの方から云えば初めの十分間くらいは私が何を主眼に云うかよく分らな
い、二十分目ぐらいになってようやく筋道がついて、三十分目くらいにはようや
く油がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五
十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸が出る。とそう私の想像通り行くか行
かないか分りませんが、もしそうだとするならば、私が無理にここで二時間も三
時間もしゃべっては、あなた方の心理作用に反して我を張ると同じ事でけっして
成功はできない。なぜかと云えばこの講演がその場合あなた方の自然に逆った外
発的のものになるからであります 。いくら咽喉を絞り声を!®らして怒鳴ってみ
たってあなたがたはもう私の講演の要求の度を経過したのだからいけません。あ
なた方は講演よりも茶菓子が食いたくなったり酒が飲みたくなったり氷水が欲し
くなったりする。その方が内発的なのだから自然の推移で無理のないところなの
である。

これだけ説明しておいて現代日本の開化に後戻をしたらたいてい大丈夫でしょ
う。日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押
し出すように内発的に進んでいるかと云うのが当面の問題なのですが残念ながら
そう行っていないので困るのです。行っていないと云うのは、先程も申した通り
活力節約活力消耗の二大方面においてちょうど複雑の程度二十を有しておったと
ころへ、俄然外部の圧迫で三十代まで飛びつかなければならなくなったのですか
ら、あたかも天狗にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行くのです。そ
の経路はほとんど自覚していないくらいのものです。元々開化が甲の波から乙の
波へ移るのはすでに甲は飽いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新
らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞め尽した上によ
うやく一生面を開いたと云って宜しい。したがって従来経験し尽した甲の波には
衣を脱いだ蛇と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに
移った乙の波に揉まれながら毫も借り着をして世間体を繕っているという感が起
らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡
る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で
食 客をして気兼をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しが
たようやくの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁えるひまのないうちに
もう棄てなければならなくなってしまった。食膳に向って皿の数を味い尽すどこ
ろか元来どんな御馳走が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新ら
しいのを並べられたと同じ事であります。こういう開化の影響を受ける国民はど
こかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなけ
ればなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をし
て得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくな

第7課新しいパラダイムを求めて 139


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