Ballet Flamenco
Sara Baras
©Peter Müller
フラメンコ心の自由から「ボセス」は生まれる。
自らの音楽を踊る心から。自らのリズムを打つ心から。
あちらの世界でも聴いてくれれるように風に祈る心から。それはこだまにならんとする声。
私たちの心を動かし、私たちにインスピレーションを与えたあの声の響き。
私たちのルーツにおいやすために今も飲み続けている静かで澄んだ泉。
それは私たちの踊り、歌、ギターが奏でる声。
床をなで、私たちの心の強さから打ちつけられる靴の踵から発せられる声、
それは深い敬愛と尊敬による声。-サンタナ・デ・イエペス
1 ©Santana de Yepes
2
ボセス、フラメンコ組曲 PROGRAM
Voces, Suite Flamenca La Llama 炎
この新しい作品は.私たちにアートを通じて全てを与え、私たちに 音楽 「愛のうた」パコ・デ・ルシア
二度と消えることのない炎をともし、私たちのフラメンコの世界に、
私たちのキャリアに、私たちの人生に、彼以前と彼以後という一時 Bulería de Chabo チャボのブレリア
代をもたらしたアーティストたちに感謝をしたいという必要から生ま
れた。 出演 サラ・バラス、群舞
「ボセス」は、コンサート形式のフラメンコ作品で、フラメンコの異 振付 サラ・バラス
なった曲種を特別な方法で、その曲のもつ本来の性格を、偉大な 音楽 J・ヒメネス“チャボリ”
る天才たちとのつながりを感じさせるデテールをちりばめながら表
現していく。シギリージャ、タランタ、ファルーカ、ティエント、ソ
レア、タンゴス、ソレア・ポル・ブレリア、ロマンセ、ブレリア…。
献身とライブのリスクの中、伝統と自由、規律と心、節度、調和、
演劇性、素朴さ、敬愛、憧憬、感謝を融合して、この炎をわけあ
いたい。制作過程だけでなく、演じていても。
Seguirilla シギリージャ
出演 サラ・バラス ホセ・セラーノ
振付 サラ・バラス ホセ・セラーノ
音楽 ケコ・バルドメロ
歌詞 ルビオ・デ・プルーナ
パコ・デ・ルシア
「技術をマスターしなくちゃいけない。指のことを忘れて、そのとき感じ
ていることをそのまますらすら出せるようにね、楽器という媒体があるこ
とを忘れるように。そうすると突然やってくるんだ、インスピレーションと
よばれるものがね。ギターにかじりついて、美しいフレーズが生まれる。
でも僕は努力の方を信じている。インスピレーションがひとりでにやって
くるのを待っていても、6 ヶ月たっても何もこないことだってあるだろう」
「僕はとても若い時からフラメンコが十個しか言葉のない表現方法だって
いうことに気づいていた。でもそのボキャブラリーは10個の言葉を使うの
ではなく、千の言葉を使うようにできると思っていた。どうしてだめなん
だい?フラメンコの精神とエッセンス、特質、個性、性格を保持してい
る限りね」
「食べるための時は簡単なんだ。でもいいギタリストになる、できるだけ
最高のギタリストに、っていうときはずっと難しい。だって上限がないわ
けだから」
(1947年12月21日カディス県アル
へシーラス〜 2014年2月25日メキ
シコ、プラジャ・デル・カルメン)
ギ タ リ ス ト。 フ ラ メ ン コ の 神 と
も称される現代フラメンコの功
労 者。 ジ ャ ズ と の 共 演 等 で フ ラ
メ ン コ の 地 平 を 広 げ た。 サ ラ は
1990年日本滞在時に知り合い、後、
CMなどで共演したこともある。
©Kyoko Shikaze
©Santana de Yepes 3
Taranta タランタ
出演 サラ・バラス
振付 サラ・バラス
音楽 ケコ・バルドメロ
歌詞 ルビオ・デ・プルーナ、ケコ・バルドメロ
カマロン・デ・ラ・イスラ
「フラメンコはフラメンコ。いつだって痛みなんだ。わかるかい? 愛の
場合だって、愛だってその奥底では苦しみだ。全ては痛みと歓びなんだ。
わかる? その人がどうとって、どうやりくりするかなんじゃないかと思う
んだ。違う?みんなそうだろう、みんなこの感情をもって生まれて来る。
その知識を、いや知恵といった方がいいな、それでものごとをみて理解
するんだ。違いは、舞台に出て歌うためにはアーティストじゃなくちゃな
らないってことなんだ。観客への敬意を、闘牛へのように持ってなくちゃ
ね」
「僕が思うには、フラメンコは続いていく、少なくとも僕が生きている限
りはね.違う? 僕はそこにいる。アルバムをつくるとき何をいわれるかな
んて考えない.そうじゃない? だって僕はそのときには理解されないっ
てわかっているから。でもある程度時間がたったらわかるようになる、っ
てよくわからないけどね。いつだってやっていることに満足できない、い
つももっとよくできるんじゃないか、って思う。違う? 最終的にはよか
れ悪かれそこにいる。ね?」
「フラメンコは一つの流派しかない。伝わるか、伝わらないか」
(1950年12月5日カディス県サン・フェルナン
ド〜 1992年7月2日バルセロナ県バダローナ)
歌い手。パコ・デ・ルシアの伴奏で出したア
ルバムでフラメンコ界の寵児となり、パコと
ともにフラメンコの新時代を築いた天才歌手。
サラの育った町の出身で子供の頃のサラに
歌ってくれたこともあるという。
©Kyoko Shikaze ©Santana de Yepes
4
Las Cármenes カルメンたち
出演 群舞
振付 サラ・バラス
音楽 ケコ・バルドメロ
Romance del Negro del Puerto ©Jullete Valtinedas
エル・ネグロ・デル・プエルトのロマンセ
出演 ルビオ・デ・プルー出演 サラ・バラス
振付 サラ・バラス
音楽 ケコ・バルドメロ
Farruca ファルーカ アントニオ・ガデス
出演 サラ・バラス 「テクニックにはひとつの役割がある。たくさんの研究があるけど、達成
振付 サラ・バラス するためにそれを導いていくには、頭を使ってはだめなんだ。心を表現
音楽 ケコ・バルドメロ することができるためには、技術ではなく、反射作用のようでないと」
「僕が彼らに何かを要求するときはそれが彼らにできるから。それ以上
(1936年アリカンテ県エルダ〜 2004年7月20 のもの、できないことを要求することはない。自分自身にも厳しくあるに
日マドリード) せよだ。僕が考えるに、人間は自分を最大限にいかすという誇りをもつ
舞踊家。1962年自身の舞踊団を結成。スペイ べきだ。この仕事は金持ちになるためでも、最もかっこよくあるためでも、
ン国立バレエ団初代監督を経て、自らの舞踊 喝采をもらうためでもなく、ひとつの文化を表現することなんだ。それで
団を率い世界中で公演。86年作品「カルメン」 そこにアートがあればわかるだろう」
来日公演で日本にフラメンコ・ブームを巻き 「なぜ踊るかを忘れつつある。人間はその精神状態で踊っているんだ。
起こした。舞台芸術としてのフラメンコを極 哀しかったから、うれしかったから、戦いたいから、だから人は踊るのだ」
めた存在。サラは日本滞在中にガデスと知り
合い親交を深めた。
©Pepe Lamarca / Archivo de Fundacion Antonio Gades
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Tientos ティエントス Soleá ソレア
出演 群舞 出演 ホセ・セラーノ
振付 サラ・バラス 振付 ホセ・セラーノ
音楽 ケコ・バルドメロ 音楽 ケコ・バルドメロ
歌詞 ルビオ・デ・プルーナ、ケコ・バルドメロ
歌詞ケコ・バルドメロ
エンリケ・モレンテ
「フラメンコにはマエストロはいない.弟子がいる。僕はマエストロがい
ない世代に属している」
「フラメンコ最高の音楽はもう作られていて、これは別のもの、今この時
のね。今このときの音楽。もちろん、アーティストは今自分の生きてい
る世界で、自分の回りでおきていることを生きなければならない」
「僕はアートに制約はないと思う。自由でなくては。全てが可能だ。重
要なのは結果」
「フラメンコはユニバーサルなものになっていくにつれて、より偉大になっ
ていく。悲観的になることはない。楽観するべきだし、若手を励ますべ
きだ」
「だいたいいつも自由でいたい。何もいってこない、伝わってない型に
無理矢理はめたものよりもね」
©Kyoko Shikaze
(1942年12月25日グラナダ〜 2010年12
月13日マドリード)
歌 い 手。 若 く し て マ ド リ ー ド に 出、
伝説的な歌い手たちとの交流で多く
を学び、伝統的なフラメンコを歌い
キ ャ リ ア を 始 め、 後、 フ ラ メ ン コ の
新しいかたちを創りあげていったマ
エストロ。サラが敬愛するマエスト
ロの一人。
6 ©Santana de Yepes
Soleá por Bulería ソレア・ポル・ブレリア モライート・チーコ
出演 サラ・バラス 「時にその痛みは魂を喜ばせる、精神が喜ぶ、なぜなら痛み
振付 サラ・バラス は時に魂に必要なものだから。痛みは強くしてくれる。ティア・
音楽 ケコ・バルドメロ アニカ・ラ・ピリニャーカが『歌うと血の味がする』っていった
歌詞 ルビオ・デ・プルーナ、 ようにね」
ケコ・バルドメロ 「またそれはロマ(ジプシー)という民族が背に負っているすべ
ての苦しみを、カンテ・フラメンコという車にのせて引き出し
て、フラメンコで感情を表現して、腹立たしい思いやこれまで
に積み上げてきた感情を外にだしていくのじゃないかと思うん
だ。まだ僕はそれほどの年齢じゃない。このことを話すほどそ
れほど年寄りでもないけど、でも知っていることを話しているん
だ。だからこんなに確信をもって言えるんだよ、これまでに聴
いてきたもの、観てきたもの、フラメンコと、家族で、僕の故
郷で、暮らしてきた、知っていることを話している、生きてきた
ことを。知っていること、聴いてきたこと」
(1956年9月13日カディス県ヘレス・デ・ラ・
フロンテーラ〜 2011年8月10日ヘレス・デ・
ラ・フロンテーラ)
ギタリスト。父、伯父ともにギタリストとい
うフラメンコの名門一家に生まれ、若くして
デビュー。歌伴奏を得意とし多くの録音があ
る。ソロでも2枚のアルバムをリリース。ま
だ十代だったサラと共演し交遊を深めた。
©Kyoko Shikaze
©Jullete Valtinedas Bulería ブレリア
出演 サラ・バラス、ホセ・セラーノ、群舞
振付 サラ・バラス
音楽 ケコ・バルドメロ
歌詞 ルビオ・デ・プルーナ、ケコ・バルドメロ
カルメン・アマジャ
(1918年11月2日 バ ル セ ロ ナ 〜 1963年
11月19日ジローナ県バグール)
踊り手。子供の時から踊り、映画出演
などを経て南米へ。アメリカではルー
ズベルト大統領に招かれホワイトハウ
スで踊った。唯一無比の足の技術はサ
ラに引き継がれているといえよう。
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プロフィール
サラ・バラス S a r a B a r a s
世界を舞台に活躍しはじめたのは20年以上前のこと。はじまりはカディ
ス、彼女の故郷だ。それは彼女の歴史の一部で、彼女のキャリアの最
初の第一歩は、彼女が最も影響を受けた、母コンチャ・バラスからのレッ
スンだった。そのほかにもシロー。マノレーテ、エル・グイート、ダニア・
ゴンサレスら偉大な舞踊家に師事してきた。今やスペインの芸術、フラ
メンコを代表するスアーティストとして国際的に活躍している。
1997年に創立した自身の舞踊団の監督であり振付家。現在までに13の
オリジナル作品を発表。世界中で3000回以上の公演を行ってきた。
世界中の檜舞台で喝采を受け、批評家にも観客にも高い評価を受けて
きた。シドニーのオペラハウス、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、
モスクワ、クレムリン・コンサートホール、マドリード王立劇場、サン
クトペテルブルグのコンサートホール、パリのシャンゼリゼ劇場、バル
セロナのリセウ劇場、上海大劇場、エジンバラのフェスティバル・シア
ター、ベローナのローマ劇場、アテネのパンテオン、タイ文化センター、
ニューヨークのカーネギーホールやシティセンター、ワシントンのナショ
ナルおペア・シアター、ミラノのピッコロ劇場、メキシコシティのベジャ
ス・アルテス宮殿、カラカスのテレサ・カレーニョ劇場、ブエノス・ア
イレスのオペラ劇場、ブダペスト芸術センター…。
また、パコ・デ・ルシアとは何度かライブで共演したほか、スペインの
人気歌手ラファエルとはテレビや舞台で、メキシコの歌手チャべラ・バ
ルガスとはバルセロナのカタルーニャ音楽堂やブのエス・アイレスのル
ナパークなどをまわる世界ツアーを行ったガ、中でも詩人フェデリコ・
ガルシア・ロルカのオマージュでグラナダのロルカの家で行ったものは
記憶に残る。アレハンドロ・サンスのコンサートにもゲスト出演師、ま
たオペラ歌手アイノア・アルテタらとの、クラシックとフラメンコの共演
も忘れ難い。テンール歌手ホセ・カレーラスとの舞台「バラス/カレー
ラス」はロイヤルアルバートホールをはじめ世界中で公演を行っている.
マイク・フィギス監督「フラメンコ・ウーマン」、ハビエル・バラゲル「エ
スクエラ・デ・セドゥクシオン(誘惑の学校)」、カルロス・サウラの「イ
ベリア」「フラメンコ・フラメンコ」、ルイス・ダネス「エル・スエニョ・デ・
エレアノル」などの映画に出演したほか、スペイン国営放送のテレビ番
組「アルゴ・マス・ケ・フラメンコ」の司会をつとめ、トリンプ、カルチェ
をはじめ、アンダルシア州、スパークリングワイン、デパートやブラン
デー、オリーブオイル、ビールなどのCMにも出演。また彼女をモデル
にしたバービー人形もつくられた。
アンダルシア州金章、パリ市ヴェルメイユ章、2003年スペイン国家舞
踊賞、ケネディ財団金章、フィレンツェのガリレオ賞など多数の賞を受
賞。スペインの舞台芸術に対するアカデミー賞であるマックス賞も5回
受賞している。2004年には切って博覧会を記念して限定で彼女の切手
も発売された。またユニセフやビセンテ・フェレール財団などの慈善活
動も積極的に行っている。
8
ホセ・セラーノ José Serrano
コルドバ生まれ。アントニオ・モンデハルにスペイン舞踊とフラメンコ
を師事。13歳で、セビージャに移り、マリオ・マジャ舞踊団でプロとし
て初舞台。以後、小松原庸子、ラファエル・アギラール、クリスティー
ナ・オヨス舞踊団を経て、89年スペイン国列バレエ団入団。1998年ま
で在籍しホセ・グラネーロ振り付け「メデア」のイアソンなど、第一舞
踊手やソリストの役を多く踊った。退団後はアントニオ・カナーレスや
パコ・ペーニャらの舞踊団で活躍。2000年にはサラ・バラス舞踊団に
ゲスト・アーティストとして参加し現在に至る。この間、2000年「狂王
女フアナ」では美王子フェリペ、2002年「マリアナ・ピネーダ」ではド
ン・ペドロ・ソトマジョル、2007年「カルメン」の闘牛士、2012年「ラ・
ペパ」ではカディス議会議長、2014年「メドゥサ」ではペルセウスを演
じ、また作品「スエニョス(ドリーム)」(2001年)、「サボーレス」(2007
年)、「エセンシア」(2009年)などの作品で自身が踊る曲を自ら振り付
けた。2005年にはカルロス・サウラ監督の映画「イベリア」のために
サラ・バラスとともに「アストゥリアス」を振り付け、出演。2007年.
2010年にはコルドバで単独公演も行った。
ティム・リース Tim Ries
サックス奏者、作曲家、編曲家、プロデューサー。北テキサス大学とミ
シガン大学卒業。1983年メイナード・ファーガソンのグループでデビュー
し、1985年ニューヨークに移り、以後、ジャズ、ロック、ワールドミュー
ジックと、ライブ、また録音で活躍。1999年から現在に至るまでザ・ロー
リング・ストーンズと共演しているほか、スティービー・ワンダー、ポール・
サイモン、マイケル・ジャクソン、ロッド・スチュワートらとも共演。ジャ
ズではレッド・ガーランド、ハンク・ジョーンズ、マイケル・ブレッカー、
ジョー・ヘンダーソン、トニー・ベネット、べラ・サチ・ラカトシュ、マ
リア・シュナイダーらと共演している。1993年から2003年までプリズム・
サクソフォン・カルテットに所属。9枚のリーダーアルバムがあり、その
中でも「ザ・ローリング・ストーンズ・プロジェクト」と「ストーンズ・ワー
ルド」の2枚はストーンズをジャズそしてワールドミュージック風に演奏
しているティムのバージョンは世界中で絶賛された。これらのアルバム
にはローリング・ストーンズの4人をはじめ、ノラ・ジョーンズ、シェリル・
クロウ、ミルトン・ナシメント、ジョン・スコフィールド、ジャック・ディジョ
ネット、フランク・アムサレム、エディ・パルミエリ、アナ・モウラらが
参加している。
©Santana de Yepes ©Santana de Yepes
9
サラ・バラス年 譜 2000年
9月、「狂王女フアナ」をセビージャのマエストランサ劇場で初演。
11月、舞踊団としての初来日公演を行う。
マドリードで開催された切手博覧会で記念切手になる。
2001年
アンダルシア観光局のCMに出演
1971年 2002年
4月、カディスに生まれる。 9月、「マリアナ・ピネーダ」をセビージャのマエストランサ劇場で初演
1979年 2003年
母のもとでフラメンコ舞踊を習い始める。 11月、スペイン文化省舞踊プレミオ・ナショナル(国家賞)受賞
1989年 2004年
スペイン国営放送TV番組「ヘンテ・ホーベン」優勝、第10回カラオラ・ 1月、ニューヨーク、シティセンターで公演(フラメンコ・フェスティバル)
フラメンカ(コルドバ)優勝。 6月、グラナダでメキシコの歌手チャべラ・バルガスと共演
マヌエル・モラオ「エサ・フォルマ・デ・ビビール」グラナダ公演に出演。
同じカンパニーで91年にパリ公演、92年セビージャ万博公演、ニューヨー 6月、マドリードでの五輪聖火イベントでパコ・デ・ルシアと競演
ク公演に参加。 アンダルシア州金章
ビール会社百周年CM出演
1990年
パコ・モジャーノ「ラ・レジェンダ」でコンチャ・バルガスらと共演 2005年
ホアキン・グリロのグループの一員としてタブラオ、新宿「エル・フラメンコ」 1月、ロンドン、サッドラーウエルズ劇場で公演(フラメンコ・フェスティ
出演 バル)、マイアミ。ワシントンなどでも公演(フラメンコ・フェスティバル)
カルロス・サウラ監督の映画「イベリア」出演
1992年 5月、9月にに来日公演を行う
リヨンのダンス祭にハビエル・バロンと出演 12月、「サボーレス」を、パリ、シャンゼリゼ劇場で初演。
1993年 2006年
第6回マドローニョ・フラメンコ賞受賞 2月、ロンドン、サッドラーウエルズ劇場で公演(フラメンコ・フェスティ
バル)
1994年 「バラス/カレーラス」をカップロイグのフェスティバルで初演
アビラのフラメンコ週間でエンリケ・モレンテと共演
9月、ヘレスのフィエスタ・デ・ブレリア、セビージャのビエナル「グラン・ 2007年
アントニオへのオマージュ」に出演 9月、「カルメン」をバルセロナ、リセウ劇場で初演
ハビエル・バロンとともにタブラオ、新宿「エル・フラメンコ」に出演
2009年
1995年 12月、「エセンシア」をパリ、シャンゼリゼ劇場で初演
マドリードに移る パリ、ベルメイユ章受賞
1996年 2010年
5 月、メルチェ・エスメラルダ「ムヘーレス」出演 カルロス・サウラ監督映画「フラメンコ・フラメンコ」出演。
9月、アントニオ・カナーレス「ヒターノス」ゲスト出演 4月、産休宣言
1997年 2011年
3月、ベアトリス・マルティン、エバ・ジェルバブエナと来日公演。 5月、長男を出産
8月、カンテ・デ・ラス・ミーナス祭に出演 12月、スパークリングワインCMに出演し復帰。
10月、エル・グイト舞踊団公演に参加
2012年
1998年 3月、「ラ・ペパ」をカディスで初演
マイク・フィギス監督短編「フラメンコ・ウーマン」出演
4月、女性舞踊手だけの舞踊団を結成。ムルシアで「センセーション」 2014年
を初演。 3月、ロンドン、サッドラーウエルズ劇場で公演(フラメンコ・フェスティ
9月、「カディス・ア・ラ・イスラ」をセビージャ、マエストランサ劇場で初演。 バル)
テレビ番組「アルゴ・マス・ケ・フラメンコ」司会に抜擢される 8月、「メドゥサ。ラ・グアルディアナ」をメリダのローマ劇場古典劇祭で
初演12月、「ボセス」をパリ、シャンゼリゼ劇場で初演。
1999年
4月、「スエニョス(ドリーム)」をヘレスのビジャマルタ劇場で初演。 2015年
マックス賞を最優秀女性ダンサー部門で受賞。 2 〜 3月、メキシコ、ニューヨーク、ワシントン、マイアミで公演。
10
©Santana de Yepes
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サラ・バラス てオマージュとしているのです」
「ボセス」を語る −彼らの声を聞いてインスパイアされ、あなたはあなた自身の声で歌う。
「そうです。彼らが、私が私の声で語ることを教えてくれたんです。彼ら
が火を灯し、それは今でも私たちの中にともっています。彼らは私たちに
ずっと長く続くものを残してくれました。私たちにだけでなく、次に続く
−なぜ「ボセス」、声たち、なのでしょうか。 世代にも。だから彼らの声は今も響き続けているのです。彼らがいなくなっ
ても、それに新たな命を与え続けていかなくてはならない、彼らは永遠
「声ということで、歌についての作品なのではないかなどともいわれます に亡くなることはないのです。そして彼らと過ごした時を忘れることはあ
が、そうではありません。私の世代ばかりではなく、私自身にも直接的 りません。一方では、なぜ彼がここにいないのか、とやりきれない気持
に影響を与えた“声たち”に感謝したいという気持ちからこの作品は生ま ちもありますが。たくさんのものを私にくれた人たちに私がなにかするこ
れました。“声”は喉から出るものばかりでなくその人の表現手段のことで とはできないのか、って。だから私は私をそのまま彼らに捧げたいのです。
もあり、その人のアートのことでもあるんです。たとえば私の声は踊り。 私の方法で、私の声で、捧げるのです」
彼らがいたおかげで私たちは今、ここにいることができるのです。そして、 −パコやガデスとは日本で知り合ったのですよね。90年、タブラオ
それとは別に、私がこれまでに直接、個人的に話をした、彼らの語る“声” に出演していたときに。
は今も私の耳に刻み付けられています。フラメンコではもちろん、歌が 「ええそうなんです。ビセンテ・アミーゴとも初めて会ったのは日本ですし、
たいへん重要なわけですが、それ以上に深く残る声があるのです。作品 スペインでよりも日本で知り合った方が多いの(笑)マドリードに住んで
を導いていくのは、彼らが語る“声”そのものなんです。私たちに自由と力 いたらまだ観る機会もあったのかもしれませんが、カディスだったので、
を与えてくれ、私たちが感じていることを表現させてくれるのは、彼らが あのころはほとんど公演もありませんでしたし。そのあとにまたタブラオ
話す声なのです。 に出演した時もまたパコとガデスの公演があったんですよ」
『サボール』という作品は私の母や先生たちに捧げました。そんなこ −その後、パコとはテレビCMやマドリードのイベントでも共演しました。
ともあってホセが私に言ったんです、マエストロたちに一曲ずつ捧げれ 「CMの時はとても楽しかったですし、マドリードに聖火がきたときも。
ば?って。だからある意味この作品は『サボール』の第二部でもあるん パコと話したことは助言はもちろんのこと、冗談ひとつまで私の心に刻み
ですね、違う先生に捧げている。彼らは若くして亡くなっているのですが、 込まれています。彼が亡くなったとき、私はロンドンにいました。舞台に
悲劇や痛みにフォーカスするのではなく、彼らがくれたものを考えるので 出なくてはいけないのに、フラメンコを聴くこと自体が苦痛で、できない、
す」 できない、って泣いていました。私にとって人生で一番大きなショックを
−彼らが残したものを 受けたのがパコのことです。公演の間中泣いていて、幕がおりたあとは、
「そう。彼らが残したものは彼ら自身であり、彼らが一生をかけてやって 舞台に突っ伏して泣きました。私の人生のサウンドトラックはパコ。たと
きたこと。それはそこにあるんです。彼らは決して古びたり、流行遅れ えば「愛のうた」をきけば、いえ、どんな曲でも彼の演奏しているものを
になることはありません。なぜならそこにはたくさんの真実があるから。 聴けば、どこにいて何をしたかを思い出します。そんな人が突然いなくなっ
すごいアートがあるから」 てしまう。そんなことがあるなんて」
−具体的にはどんな曲で −そのパコへのシギリージャから始まる
「パコ( ・デ・ルシア)にはシギリージャ、カマロンにはタランタ、(アン 「最初にカルロス・エレーラの声でこれから何をするかが語られます。
トニオ・)ガデスにはファルーカ(、エンリケ・)モレンテはソレア、モライー そしてパコの「愛のうた」が流れます。それは火をともすこと。この火を
トにはソレア・ポル・ブレリア、そしてカルメン・アマジャはブレリアです。 たやさずに灯し続けていかなくては。私たちにインスパイアを与えてくれ
カルメンだけは直接会うことはなかったのですが、そのほかの人たちとは る火。それはこれから何年も何年も続いていくことでしょう。そのあとに、
一緒に仕事をしたり、直接知っている人たち、直接声を聞いた人ばかり (歌手ニーニャ・パストーリの夫でパーカッショニスト、作曲家の)チャ
です」 ボリの曲でカンパニーによるプレゼンテーションをがあります。そしてそ
−カルメンはあなたが生まれる前に亡くなっていますものね。 のあとがシギリージャ。ホセ( ・セラーノ)と私のパレハで踊ります。
「ええ。残念ながら知り合うことはできませんでしたが、私の踊りは彼女 ここで私は水玉の衣装を着るのですがたぶん20年振りくらい.最初に日
と関係が深いと思うのです。彼女の踊りに多くを学びましたし、憧れです。 本に行ったとき以来じゃないかしら。水玉やフリルの衣装を着ないのは
私にとってとても大切な存在です」 なにかに反抗していたというわけじゃないんです。でもそれを着ずとも自
−彼らの“声”そのものということですが、実際の彼らの声、語りの 分はフラメンコだと感じていたんです。パンタロンで踊った時もバタ・デ・
録音を使うのでしょうか コーラで踊るよりも女性的だと思っていました。それが今、水玉を着ると
「ええ。彼らの言葉で私たちが動きはじめるのです。彼らの言葉を聞いて、 いうことは、過去の私を思い出すことなの。照明、衣装。装置、劇場、
言葉が終わったら次の曲がはじまります。それぞれに一曲を捧げていま 構成、演出、話し方。いろんなことを学んで来たけれど、本当のあなた
すが、彼らの曲を歌ったり踊ったりということではなく、私たち自身の“声” はフラメンコ娘。音楽がなってそこに魂を捧げる。それが重要なの。
で、彼らの“声”に刺激を受け、影響を与えられて歌うコンサートなのです。 園次のカマロンへのタランタは私。そのあとでガデスからの発想で「カ
そのアーティストを真似したり、そのアーティストの振り付けをそのまま踊 ルメン」のイメージを群舞が踊ります。そのあとが私のファルーカ。群舞
るわけではありません。たとえばタランタをカマロンの歌ったそのままに でティエントがあって、エンリケ/モレンテへのソレアはホセ、モライート
歌うということでも、それを上手に踊ろうとすることではなく、踊る私が へのソレア・ポル・ブレリアとカルメン・アマジャのブレリアは私。主な
カマロンのことを考えて、彼に捧げる。カマロンのような偉大な人に? 場面は半分以上が私になりますね」
そう、偉大だからこそ、私なりの方法で、私の声でカマロンを思って踊っ −カマロンとも縁が深いですよね。
©Outumuro
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©Peter Müller
「カマロンは母のアカデミアに時折やってきていたので、小さいときから 月回りました。本当にこんなにいい人で、面白い人がいるのか、という感
知っています。母が彼の娘に教えていたんです。何かあると彼のおにいさ じ。彼のギターもそうだけど、すごく味わい深くて.人間そのものにフラ
んのマヌエルやピホータたちが歌って私が踊っていました。舞台でカマ メンコのリズムがあふれている感じです」
ロンが私に歌ってくれたこともあります。ああ、この人の歌だとなんて気 −出演者について教えて下さい
持ちよく踊れるんだろう、って思っていた。こどもでなんにもわかってい 「曲は全部生演奏で、音楽はケコ・バルドメーロ。歌は特別。ルビオ・デ・
なかったんだけどね。跡から考えてみればそりゃそうでしょ、って(笑)。 プルーナ、本当にすごい歌い手よ。もう一人はイスラエル・フェルナンデス。
今回のタランタも、あ、ホセ(カマロンの本名)はこれきっと好きじゃな 昨日シギリージャのイントロを歌って私、涙がでてきたわ。歌い手は3人。
いわ、やめよう、もっとレトラを尊重しよう、ここで停止はしない、って、 あとミゲル・ロセンドね。ギターはケコとアンドレス・マルティネス。グアディ
ホセのことを考えながらつくった。今の私の踊りとはちょっと違う。でも アナの息子のアントン・スアレスとパハロがパーカッション。群舞は男3人
昔風に踊ろうと思っている訳ではなく彼のことを考えて踊ると自然にそう 女3人。みんなすごいわよ。カディスの子が3人とセビージャ、コルドバ、
なるの」 マラガが各1人。そしてペピン、ホセ・セラーノ」
−エンリケ・モレンテとは −ついに日本です。
「モレンテは最初、実は私好きじゃなかったんです。地元が一緒だし、 「日本にはとてもたくさんのいい思い出があります.最初に行ったのはま
小さい時からカマロン派だったし。でも時がたつにつれだんだんその価 だ本当に若いときで、すごく印象に残っています。新宿の『エル・フラメ
値がわかってきて、突然、ばん、ってモレンテ大好きになる」 ンコ』に出演しました。そのあとも何度か行って、とても勉強になりまし
−最初は抵抗がありますよね。今まで聴いてきた伝統的なものとは たし、楽しかったです。日本の観客は素晴らしいと思います。なぜなら
違うから 心の最も奥深いところに感情を探しているからです。本当に、フラメンコ
「そうなの。これはいったいなんなの、って聴いているうちに自分のレベ たちは皆日本が大好きなんです。日本のフラメンコ熱はほんとうにすごい
ルも変わってわかるの。なんてすごいんだ、って。彼のソレアの素晴らし です。一見スペインと日本はすごく違うように見えるのだけれど、実はそ
さ! カディスにいたときは自分が最高の踊り手だと思っていました。で うじゃなくて、文化も似ているところがありますね。フラメンコへの献身
もマドリードにきてみれば私なんて何もできない。それと同じで、レベル には頭が下がります」
が変わるとフラメンコはモレンテ、ってなるのね。理解しようなんて考え −公演がとても楽しみです。
なくてもモレンテ派に、ね。 「作品は公演を重ねるにつれて豊かになってきています。いろんな場所、
ホセが踊るソレアでは床がチェス盤みたいになっているの。エンリケ いろんな観客の前でやることで、すごく素敵になってきていると思います。
がよくカンデーラ(マドリードのフラメンコたちのたまり場だったバル)で いつも巨匠たちに囲まれて彼ら天才たちとのつながりを探し、みつける。
よくチェスをしていてね、店の奥でフィエスタが始まって歌が聞こえてき 「ボセス」は彼らに感謝したいと思ってつくられました。でもそれがまた
たりすると駒を持ち上げたままじっと聴いているエンリケを思い出すわ。 私たちへの贈り物になるとは思ってもいませんでした。細部まで気をつけ
相手のミゲル(カンデーラのオーナー。故人)がいくらうながしても歌が ていることと伊インプロビゼーションの融合がこの作品では重要です。個
終わるまで次の手に進まない」 人的に好きなのはパコへのシギリージャとカマロンへのタランタ、ガデス
−モライートとも共演していますよね。 へのファルーカ、モレンテへのソレア、モライートへのソレア・ポル・ブ
「私がまだ16歳のときですね。最初は「エサ・フォルマ・デ・ビビール」で、 レリアス、カルメンへのちょっとしたこと、私は彼らの声と彼らの真実を
その後、パコ・セペーロ、ランカピーノ、モライートたちとドイツ各地を2 ヶ 愛してます」
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CAST Dancers
María Jesús García Oviedo マリア・ヘスース・ガルシア・オビエド
Artistic direction & choreograph, dance Charo Pedraja チャロ・ペドラハ
Sara Baras サラ・バラス Cristina Aldón クリスティーナ・アルドン
Guest artist & choreographer of his pieces Daniel Saltares ダニエル・サルタレス
José Serrano ホセ・セラーノ David Martín ダビ・マルティン
Guest artist / saxophone Alejandro Rodríguez アレハンドロ・ロドリゲス
Tim Ries ティム・リース
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Musicians Sing :
Guiter: Rubio de Pruna ルビオ・デ・プルーナ
Keko Baldomero ケコ・バルドメロ 本名アントニオ・フローレス・コルテスは1983年コルドバ生まれ。子供の頃
1984年カディスのサンタ・マリア街に生まれる。9歳でギターを弾き始め、マ にプルーナに移りそこで育ち芸名はそこから。2008年プエルトジャノのコン
ノロ・サンルーカルやチクエロに師事。2001年からマリア・セラーノ舞踊団 クールで優勝。ファルキートやフアン・デ・フアン、マヌエラ・カラスコら一
で活躍。2005年には地元カディスでリサイタルを開催。また2006年にはホセ・ 流舞踊家の伴唱 を経て2012年パコ・デ・ルシアのグループに参加。
メルセの伴奏をする。2012年からサラ・バ明日舞踊団に参加。「ラ・ペパ」「メ
ドゥーサ」「ボセス」三作品の音楽を担当。 Miguel Rosendo ミゲル・ロセンド
1972年カディス生まれ。地元のペーニャで歌い始め、1995年パルケ・エスパー
Andrés Martínez アンドレス・マルティネス ニャのフラメンコグループで来日。以後、医師らエル・ガルバン。パストーラ・
ガルバン、マヌエラカラスコ、クリスティーナ・オヨスなど一流の舞踊家に伴唱 。
国内外で活躍中。
Israel Fernández イスラエル・フェルナンデス
トレド生まれ.2007年にデビュー CD「ナランハス・ソブレ・ラ・二エベ」、
2014年には第二作「コン・イロ・デ・オロ・フィノ」発表している実力派。
カルロス・サウラ監督演出の公演「フラメンコ・オイ」で世界各地で公演した。
Percussion :
Antonio Suárez アントニオ・スアレス
Manuel Muñoz”Pájaro”マヌエル・ムニョス“パハロ”
15 ©Santana de Yepes
Ballet Flamenco Sara Baras Ballet Flamenco de Andalucía
Technical director Stage manager
Sergio Sarmiento Antonio Oviedo
Stage manager Lighting & Set Design
Sergio Olivero Gloria Montesinos (AAI)
FOH sound Images
Sergio Sarmiento Visuales Tama
PA sound Costume Design
Andres Prieto Blanco y Belmonte
Lighting technician Costume Production
Oscar Gomez De Los Reyes Blanco y Belmonte/Pepa Carrasco/Bova Mikhailova/
Talleres Unidad de Recursos Técnicos y Producción
Tailor
(AAIICC)
Adolfo Martinez
Bata de Cola Production
Dance repeater
Amay Flamenco
María Jesús Garcia
Tailor Director
Shoes
Pepa Carrasco
Gallardo
Wardrobe
Road manager
Isabel Villavieja
Jose Reyes Garrido
Shoes
Image department
Gallardo
Webea Estudio
Set Production
Direction assistants
Taller Recursos Técnicos y Producción (AAIICC)
Patricia Pereyra Baras, Jose Aguilera
Recording Studio
Press
Estudio RedLed
Ricardo Ladrón de Guevara
Sound Design
Coordination & management
Rafael Gómez
José Luis Pereyra Baras
Sound technician
Production
Jose Manuel Sanchez
Saba Danza S.l.
Lighting technician
Alfredo Vique Gonzalez
Juan Moral Moreno
Techical coordinator
Elena Paloma Contreras
Luis Sanchez-Ramade
Machinery
Jose Antonio Jimenez
Video technisian
Miguel Arturo Franco
Tour manager
Maria Josefa Montilla
Graphic Design
Agencia Andaluza de Instituciones Culturales,
Departamento Gráfico, Ildefonso Troya
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主催・企画制作・招聘 宣伝・広報
株式会社パルコ 劇場担当 共同PR
フライヤー・パンフレットデザイン
佐藤玄、祖父江友秀、谷村篤、柳原一太、 伊勢功治
大宮志織、大川慶子、中村公彦、
中野舞、高橋正樹、川島貴恵 フライヤー・パンフレットテキスト/翻訳
製作:井上肇 志風恭子
制作:三宅彰 印刷
プロデューサー:中西幸子
歩プロセス
制作協力
Special Thanks
舞台監督
磯田ヒロシ、荒えりこ、西脇美絵子、志風恭子
浜辺心大朗
特別後援
舞台監督助手
後援
有本三郎
本弘 This tour is produced by
舞台美術協力 編集・発行
モモ プランニング パルコ劇場
エクス・アドメディア
〒150-0042 東京都渋谷区宇田川町15-1
トランスポート 03-3477-5858
マイド www.parco-play.com
音響 ©2015 PARCO
サンフォニックス 禁・無断転載
照明 17
ライトシップ
映像
インターナショナルクリエイティブ
衣装
押見陽子
須田和美
白井友貴子
通訳
村上早栄(ラップス)
岡本晃子(ヒラソル)
志風恭子
映像
インターナショナルクリエイティブ
票券
インタースペース
公演運営
ニード・ディレクションシステム
舞台写真
青柳裕久
©Niccoló Guasti
アンダルシア・フラメンコ舞踊団の
歴史
1994年
アンダルシア舞踊団創設。初代芸術監督にマリオ・マジャが就任
12月から1月にかけて「レクイエム」「デ・ロ・フラメンコ」をマドリード
のアルベニス劇場で上演
1996年
マリオ・マジャ辞任。コルドバで「オメナへ・ア・アルベニス.イベリア
組曲」「フラメンコ・デル・アルトサーノ.ティエントス タンゴス」(マノロ・
マリン)、「アンダルシアの犬 ブルレリアス」(マリア・パヘス)を初演.
8月マドリード劇場で公演
1997年
「エル・ハレオ」(マリア・パヘス、フェルナンド・ロメロ)初演
9月、マリア・パヘスが監督退任
10月、「はかなき人生」マドリード王立劇場落成公演で上演
1998年
3月、来日公演
4月、「コサス・デ・パジョス」(ハビエル・ラトーレ)、「ラティードス・フ
ラメンコス」(マノレーテほか)「、マルノー」(ホセ・アントニオ)セビージャ、
ロペ・デ・ベガ劇場で初演
6月、「バルス・パテティコ」(ホセ・アントニオ)グラナダ国際音楽舞踊
祭で初演
11月、「ゴルペ・ダ・ラ・ビダ」(ホセ・アントニオ、ラファエル・カンパー
ジョ)、「イマヘネス・フラメンカス」(ホセ・アントニオ)をセビージャの
セントラル劇場で初演
1999年
6月、「エレヒア、オメナヘ・ア・アントニオ」(ホセ・アントニオ)、「ウン・
ラミート・デ・ロクーラ」(ハビエル・バロン)をグラナダ国際音楽舞踊
祭で初演。
10月、アトリエ(学校)を開講
2001年
3月、「エンクエントロス」(アレハンドロ・グラナドス、エバ・ジェルバブ
エナ、イサベル・バジョン、ラファエル・カンパージョ、ホセ・アントニオ)
をセビージャのロペ・デ・ベガ劇場で初演
6月、「ピカソ・パイサへス」(ホセ・アントニオ)グラナダ国際音楽舞踊
祭で初演
2002年
7月、「血の婚礼」(アントニオ・ガデス)グラナダ、ヘネラリフェ劇場で
初演
9月マエストランサ劇場で「ラ・レジェンダ」(ホセ・アントニオ)初演
2003年
1月、ニューヨーク、シティセンターで公演(フラメンコ・フェスティバル)
7月、グラナダ、ヘネラリフェ劇場でオヨス舞踊団により「イエルマ」(ク
リスティーナ・オヨス)初演
2004年
1月、ニューヨーク、シティセンターで公演(フラメンコ・フェスティバル)
2月、クリスティーナ・オヨスがアンダルシア舞踊団監督に就任
3月、セビージャ、マエストランサ劇場で「イエルマ」(クリスティーナ・
オヨス)上演
舞踊団の名前をアンダルシア・フラメンコ舞踊団に改名
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2005年
3月、「南への旅」(クリスティーナ・オヨス)コルドバ、グランテアトロで初演
8月、愛知万博スペイン館アンダルシア週間の時に名古屋公演
2006年
2月、ニューヨーク、シティセンターで公演(フラメンコ・フェスティバル)、
ロンドン、サッドラーウエルズ劇場で公演(フラメンコ・フェスティバル)
7月、「ロマンセロ・ヒターノ(ジプシー詩集)」(クリスティーナ・オヨス)
をグラナダ、ヘネラリフェ劇場で公演
2009年
7月、グラナダ、ヘネラリフェ劇場で「ポエマ・デル・カンテ・ホンド・エン・
エル・カフェ・デ・チニータス」(クリスティーナ・オヨス)初演。翌年再演
2011年
10月、ルベン・オルモが新芸術監督に決定
2012年
2月「、メタフォラ」(ルベン・オルモ)を ヘレスのビジャマルタ劇場で初演。
7月、「ジャント・ポル・イグナシオ・サンチェス・メヒアス」(ルベン・オルモ)
グラナダ、ヘネラリフェ劇場で初演
2013年
3月、ボストン、ニューヨーク、ワシントン、マイアミ、またロンドンのサッ
ドラーウエルズ劇場で公演(フラメンコ・フェスティバル)
2014年
1月、「エン・ラ・メモリア・デル・カンテ1922」コルドバのグランテアト
ロでで初演
9月、「イマヘネス」をセビージャのマエストランサ劇場で初演
アンダルシア・フラメンコ舞踊団
プロフィール
フラメンコの保護をその法令で定めるアンダルシア州(正確には自治政
府)立の舞踊団として1994年誕生。
当初はアンダルシア舞踊団という名前だったが、2004年アンダルシア・
フラメンコ舞踊団と名前を替えた。
マリオ・マジャ、マリア・パヘス、ホセ・アントニオ、クリスティーナ・
オヨスと、スペイン舞踊の歴史に残る偉大な舞踊家たちが歴代の芸術
監督をつとめ、アントニオ・ガデスから現代フラメンコを代表するエバ・
ジェルバブエナ、ハビエル・ラトーレらまで、錚々たる舞踊家たちの振
り付け作品を上演してきた。
ニューヨーク、ロンドン、パリはもちろん、イタリア、スイス、ギリシャ、
キューバ、メキシコ、アルゼンチン、中国など世界各国で公演、日本
へも1998年東京、2005年愛知万博と2回やってきている。
創立メンバーだったイスラエル・ガルバン、ベレン・マジャ、イサベル・
バジョンをはじめ、ラファエル・カンパージョ、フェルナンド・ロメーロ
ら多くの一流フラメンコ舞踊家を輩出してきた。2011年より芸術監督は
公募となり、5代監督をルベン・オルモが勤め、ラファエラ・カラスコが
それを継いで現在にいたる。ラファエラはこの舞踊団の創立メンバーの
一人で、後、ソロで活躍。洗練されたスタイルのフラメンコで知られる
彼女は2002年創立した彼女の舞踊団でも次々と素晴らしい作品を発表
してきたが、2013年秋にアンダルシア・フラメンコ舞踊団芸術監督就任。
2014年1月「エン・ラ・メモリア・デル・カンテ1922」を初演。
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©Luis Castilla
CAST PROFILE Dancers
Alberto Sellés アルベルト・セジェス
Dancers 1991年カディス県サン・フェルナンド生まれ。
Soliste: 地元の舞踊学校を経てアンヘリータ・ゴメスに
David Coria ダビ・コリア 師事。アントニオ・エル・ピパ、ウルスラ・ロペ
リハーサル監督。1983年セビージャ生まれ。セ ス、ハビエル・バロンらの舞踊団で活躍。ウブ
ビージャの公立舞踊学校に学び15歳でアンダル リケやウエルバ等のコンクールで優勝。
シア舞踊団アトリエに参加。2001年スペイン国
立バレエ団入団。退団後はアイーダ・ゴメスや Alejandra Cudíアレハンドラ・グディ
ルベン・オルモ、ロシオ・モリーナのカンパニー 1985年アルメリア生まれ。アルメリアの公立舞
等で活躍。2008年ラファエラ・カラスコ舞踊団 踊学校でスペイン舞踊とフラメンコを学美、マド
に参加。2010年には自身の作品をマドリードで リードの舞踊学校で教授資格取得。アントニオ・
初演し、ドイツのダンス雑誌で最優秀ダンサー エル・ピパやラファエル・アギラールの舞踊団
に選ばれた。 等で活躍。
Ana Morales アナ・モラーレス Antonio López アントニオ・ロペス
1982年バルセロナ生まれ。バルセロナ公立舞 1978年マラガ生まれ。1997年からプロとしてカル
踊学校に学び、後、アンダルシア舞踊団アトリ メン・モタ舞踊団で10年間活躍。後、サラ・バラ
エに奨学金を得て学ぶ。2000年セビージャのマ ス、マヌエル・リニャンとラ・モネタのカンパニー
エストランサ劇場でプロとしての初舞台を踏み、 などで活躍。
アンダルシア舞踊団に参加。「ラ・レジェンダ「」血
の婚 礼」 などの 公 演に参 加。2010年ソロでの Paula Comitre パウラ・コミトレ
初作品をヘレスのフェスティバルで初演。2012 1994年セビージャ生まれ。公立舞踊学校に学び
年のビエナルでは二作目を上演した。 教授資格取得。後アンダルシア舞踊センターに
学ぶ。各地の舞踊コンクールで入賞経験あり。
Hugo López ウーゴ・ロペス
1989年コルドバ生まれ。コルドバの公立舞踊学
校と姉の舞踊教室に学ぶ。後、アンダルシア舞
踊センターで研鑽を深める。ラファエル・エステ
ベス&ナニ・パーニョス、ハビエル・ラトーレや
小島章司、マヌエル・リニャンとラ・モネータの
カンパニーやタブラオ等で活躍。2006年ミハス
のコンクールで、また2010年にはアンダルシア
青少年フラメンココンクールで優勝した。
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Laura Santamaria ラウラ・サンタマリア Musicians
1989年セビージャ生まれ。 バレエとスペイン Guitar:Jesús Torres ヘスース・トーレス
舞 踊を学 び2005年 ヘーレン財 団 奨 学 金 獲 得。 1965年北部スペイン、バラカルド生まれ。89年にマドリードに移り、マリア・ロ
2011年エバ・ジェルバブエナ舞踊団に参加。後、 サ等の舞踊団やタブラオなどで活躍。ベレン・マジャ、イサベル・バジョン、ラファ
アンドレス・ペーニャのカンパニーなどで活躍。 エラ・カラスコ等中堅舞踊家の音楽を担当。2008年にソロCD「ビエント・デル・
ノルテ」を発表。2015年にはスペイン国立バレエ「サグアン」音楽も担当した。
Eduardo Leal エドゥアルド・レアル
1982年アルメリア県ガルーチャ生まれ。18歳で Juan Antonio Suárez”Cano”フアン・アントニオ・スアレス“カーノ”
マドリードに出て公立舞踊学校に学ぶ。ルベン・ 1971年バルセロナ生まれ。バルセロナでプロ活動を始め、後マドリードに移
オルモやラファエル・アマルゴの舞踊団を経て る。メルチェ・エスメラルダ、ベレン・マジャ、ラファエラ・カラスコ.アンドレス・
2012/2013年アンダルシア・フラメンコ舞踊団ソ マリンら多くの舞踊家たちを伴奏。2008年ソロCDをリリース、2010年には
リスト。 2枚目, 12年には3枚目のアルバムを発表した。
Florencia O´Ryan フロレンシア・オリアン Sing:Antonio Campos アントニオ・カンポス
1987年チリのサンティアゴ生まれ。2007年渡西。 1972年タラゴナ生まれのグラナダ育ち。偶然録音したものがプロの目に留ま
09年よりペーニャなどで活躍。2011年コンクー り97年よりタブラオで歌い始める。マリオ・マジャ、メルチェ・エスメラルダ、
ルでヘーレン財団奨学金獲得。13年にはマドリー ラファエラ・カラスコ、ハビエル・バロン、ラ・モネータ等数多くの舞踊家に
ドのタブラオ主催のコンクールに入賞した。 伴唱 。2009年ライブ録音「コラル・デル・カルボン」をリリース。15年2枚
目を発表.
Carmen Yanes カルメン・ヤネス
1994年セビージャ生まれ。セビージャの公立舞 Gabriel de la Tomasa ガブリエル・デ・ラ・トマサ
踊学校やアンダルシア舞踊センターに学ぶ。 1980年セビージャ生まれ。父はホセ・デ・ラ・トマサ、祖父ピエ・デ・プロモ、
祖母ラ・トマサ、と伝説の歌い手マヌエル・トーレにつらなる家系で子供の時
からフラメンコに親しむ。カルメン・レデスマ、エル・ペラオ、ホセ・マジャ、ラファ
エル・アマルゴらの劇場公演やタブラオ等で活躍。現在はマドリード在住。
21 ©Rubén Martín
ラファエラ・カラスコ プロフィール
Rafaela Carrasco
セビージャ生まれ。
8歳のときからフラメンコ舞踊の巨匠マティルデ・コラル門下で学び、
18歳でマリオ・マジャ舞踊団入団。1994年創立時マリオ・マジャが監
督を務めたアンダルシア舞踊団へ。退団後はセビージャやマドリードの
タブラオで活躍。1998年には新宿「エル・フラメンコ」に出演している。
2002年にはスペイン舞踊とフラメンコの振付けコンクールで最優秀振
付け、最優秀音楽、最優秀舞踊家賞を受賞。自らの舞踊団での活動
をはじめ、2010年には世界最大のフラメンコ祭セビージャのビエナル
で最優秀振付賞、またマドリード共同体の文化賞を舞踊部門で受賞す
るなど高く評価されている。2013年アンダルシア・フラメンコ舞踊団の
芸術監督に就任。2014年初めに「エン・ラ・メモリア・デル・カンテ
1922」を初演。秋に舞踊団20周年記念作「イマへネス」を初演した。
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©Antonio Acedo, Bienal de Flamenco de Sevilla
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ラファエラ・カラスコが語る
「イマヘン」
−アンダルシア・フラメンコ舞踊団の芸術監督に就任してもう2年に 「アンダルシア舞踊団監督時代とはね。でも振り付けやデテールにマリ
なりますか。 オがいっぱいでてきます。私があの場面で少しソロを踊るけど全部マリオ
「今舞踊団の芸術監督は振付家が作品のプロジェクトを提示しその作 の振りよ。彼にインスピレーションを得ているけれど、今の視点でみたマ
品を制作する、という公募制をとっているのですが、その中から私のプ リオなの」
ロジェクトが選ばれたと連絡があったのは9月の終わりです。それから −マリオは群舞での椅子の踊りは振り付けていなかったと思いますが。
オーディションをして、私のスタイルにあうダンサーを選んで、3人のソリ 「そう。彼の舞踊団で彼を含めて3人でやったのが最大人数。でも私はもっ
ストも選んで…。ミュージシャンは私がどういう仕事をしているかを知っ とたくさんの人数であれをやったらもっと力強いイメージになると思った
ている人たちに決めて。全てを選んで仕事が始まった。11月4日が初めて の。みんなが機械的なくらいに同じように踊ったらすごいな、って。動き
の稽古。最初の作品『エン・ラ・メモリア・デル・カンテ:1922』です はマリオの動きに、彼のエネルギーにインスパイアされているけれど、現
ね。(グラナダで行われた)カンテ・ホンドのコンクールへのオマージュで、 代的になっています」
最初はそのプロジェクトだけのはずだったのね。だけどちょうど20周年と −二番目の場面は
いうこともあって、それを祝う作品を、ということになったんです」 「マリア・パヘスの『アンダルシアの犬』ですね。あの作品はカンテラを
−では「イマヘネス」はもともとアンダルシア州の発案でつくられた もった男女のパドドゥで始まるの。それがとてもきれいで、灯がともって、
わけですか それがかもしだす雰囲気、不安定な感じ? そのイメージから、点いた
「アンダルシア州は20周年記念でなにかをしたいと思っていた。それで何 り消えたりするカンテラとで雰囲気をつくって、バックに雲がかかった月
ができるだろう、って私にきいてきたのです。いろいろ考えたけど、最初 を映写して…。思い出を呼び起こす感じ。エネルギーも最初のシーンと
から、昔の作品を再現するということはしたくない、と言いました。ひと はまったく違います」
つの作品の一部分をやるとか、ほかの振付家のものを再現するというの −最初はエネルギーが爆発しそうな感じだけどこちらはずっと落ち着
はいやだった。いいものはその時に、その出演者でやったからいいのだ いた感じ。
と思うの。年月がたつと、当時、その作品ができたときほど良くはない。 「そう、もっとずっと内に向かう感じね。アナ・モラーレスとダビ・コリア
それはいやだった。それで今見ることのできる昔の作品のビデオをある の素晴らしいパドドゥもあります。でもこれもオリジナルとはまったく違う。
限り観ているうちに、歴代の監督たちを思い出していく、という作品にし でもあの作品の雰囲気やエネルギー、かもしだされる空気、そして小物
ようと決めた。それで彼らの、アンダルシア舞踊団での代表作の“イメー にインスパイアされているのね。そうやってマリア・パヘスと「アンダルシ
ジ(イマヘネス)”と、その作品に登場したオリジナルの要素を使おうと アの犬」を思い出す。新しい音楽を、歌詞をつくったわけだけど、それ
思いました」 もオリジナルのものを思い出すためなんです」
−ではオリジナルは —そのあとがホセ・アントニオですね。
「もともとのものは何もありません。小物だけですね。音楽も振り付け 「彼はCAD、アンダルシア舞踊センターをつくりました。ここで皆鍛え
も全部新しい。でもそれぞれの監督そして作品の雰囲気、エネルギー、 られたんです。アンダルシア舞踊団のアトリエみたいなものですね。で、
形にインスパイアされています。それぞれのシーンは年代順にしていこう ホセ・アントニオのイメージで印象深くて、皆がみたらすぐに思い出すと
と思って、 だから最 初はマリオ。 マリオは椅 子に座っての 振り付け。 おいうのが、あの長い長いバタ・デ・コーラ。カルメン・アマジャの人と
マリオがアンダルシア舞踊団に振り付けた作品には椅子に座って踊るも 人生へのオマージュの「レジェンダ」です」
のはありませんでした。でも私にとってマリオは、アンダルシア舞踊団創 −後にホセ・アントニオが監督をつとめた国立バレエ団でも上演さ
立以前から長い間彼と一緒にやってきたというのもあるけれど、椅子で れました。
の踊りこそが彼のイメージなんです。誰がみてもマリオとわかります。12人 「そう。あの印象的な世界一長いバタ・デ・コーラ。本当はカルメンのバ
が椅子に座って踊る、というのはすごく力強いイメージ。そのイメージか タはそんなに長くなくて、柄だから長くみえたのではないかと思うの。で
ら始まっているんです」 もそのエネルギーとバタをコントロールする力や、彼女がバタを支配する
−ではここでいうイマヘンは1枚の写真のように決まったものではなく
イメージのことなんですね。
「そう、頭に残るイメージ。私にとって作品をみて残るイメージというのが
とても重要なんです。公演を見終えて家に帰ったときに思い出すのはイ
メージ。振りや音楽の細かいことは忘れてしまっても、目から入ってきた
イメージは残る。マリオのイメージとして私は椅子に座って踊る彼を思っ
たのです」
—でもマリオがやっていたこととは違う。マリオを思い出させるけど
24
感じが、世界一長いバタをあやつる、という伝説になったのではないか シュで。私たちは全部外に出すけど」
しら。その話にインスパイアされて、ホセ・アントニオは極端に長いバタ・ −日本は内に秘める。日本の観客はスペインと違いますか。
デ・コーラを出した。あの長さで踊ることは絶対不可能。なので、私た 「そうね。たしかに違う。もっとうちに秘めている感じ。でもフラメンコを
ちはカルメンの足の映像と、いろいろ姿を変える線の映像を舞台に映写 本当に愛しているのは伝わります」
しました」 日本でもいわゆる純粋なフラメンコが好きだといっている人は劇場のフラ
−あの場面はとてもきれいですね。ダンサーたちもスクリーンになって メンコに足を向けないということがあります。
「そう、白いバタ・デ・コーラに、赤い線が映写されてやがてカルメンの 「 ええ、 そういうことはありますね。 日本 だけじゃなくて他 の国でも。
足になる。最初に私が踊るところでもカルメンの足がうつっているの。こ 伝統的なフラメンコだけで、劇場や照明がきれいな作品は見たくないっ
の作品は上からみるといいのよ。バックにだけでなく、床にもいろいろ映 て言う人が、アメリカでもフランスでもね。でもこの作品は歌い手も素晴
写するから」 らしい。ギターも素晴らしい。踊りはたしかに振り付けされたものだけど、
—ホセ・アントニオとその作品へのオマージュというだけでなくカルメン・ 力強いソロもあります。すごくフラメンコな、ね。アナが踊るタンゴ・デ・
アマジャのオマージュにもなっているんですね。そして次が マラガは脱帽ものだし、ウーゴも本当にすごい。そして群舞ではフラメ
「クリスティーナ・オヨス。彼女も長い間監督をつとめて、たくさんの作 ンコが好きな人だけでなく、フラメンコがなにかを知らない人でも目にや
品を上演しました。彼女の沢山の作品をみてきたけれど、『 南への旅 』 さしくわかりやすいと思います。スペインでも、ほかの国でもフラメンコ
は彼女の最もパーソナルな作品だと思います。ホセ・アントニオは、現 をみるのを怖がる人がいます。彼らはある意味純粋の、伝統的なフラメ
代的で舞踊的。でもクリスティーナはルーツヘ回帰していく。彼女はフ ンコが舞台に上がっていて、理解できないんじゃないかと、楽しめない
ラメンコにこだわった。 んじゃないかと思うんですね。言葉もわからないし、何を歌っているのか
あの旅行鞄を抱えて行ったり来たりするというのは、単にシンボルとし わからないし、歌い手はいつも嘆いているし(笑)。でもこの作品は目に
てのものだけでなく、私たちアルティスタにとっては現実。そしてその みてわかるし、フラメンコのエッセンスにあふれているのでその心配はあ
旅行鞄に入っているのは服だけじゃなくて、生活、人生、夢、苦しみ。 りません」
いろんな物語がつまっていて、私たちのフラメンコは、文化は、鞄のよ −プーロフラメンコ好きにも歌い手を聴くだけでも価値がある
うに人から人に手渡されていくのね。シンボルかつ現実。映写も旅と関 「その通りです」
連していて、駅、歩く、旅、どこかへ行く…」 −そしてミュージカルや他のジャンルのダンスが好きな人も満足する
−そして最後は 「そう。すごく開かれた作品なの。いろんな要素があるから。作品の構
「ルベン・オルモ。彼は『メタフォラ』と『ジャント』という作品をつく 成、演出は現代的だけど、その中にすごくフラメンコなエッセンスがある
りました。彼はバイラリン(フラメンコ専門のバイラオールではないダン し。歌でもソレア、カーニャ、ポロ、バンベーラと伝統的なカンテもたく
サー)。偉大なダンサー。彼の『ジャント』の闘牛場のシーンは印象に さんある。タンゴ・デ・ピジャージョもそうだし、私のソロではマルティネー
残った。また、彼のイメージで皆に強く残っているのはマントンで踊って テからリビアーナ。舞台構成は現代的だけどね」
いるところ。なのでマントンと闘牛場の半円を思い出して、全員が半円 −日本の観客にメッセージを
形に座って、バックには闘牛士のケープの濃いピンク、床には闘牛場の 「伝えたいことは沢山あるわ。日本の町を、観客を楽しみたいし、本当
黄色い土を映写するの。そして最初はマントンが主役。ソリストの3人が に心から日本に行くのが楽しみです。そしてこの作品をみて頂くのも楽し
私と踊る場面から始まって、マントンが手渡されていく。それも現実であ みです。私はソロで踊って日本に行ったけど自分のカンパニーで行ったこ
りシンボルでもあるのね。そのあと半円形に座って、フィエスタの雰囲 とはありません。自分の作品を、振付家としての作品を皆さんにみても
気になります。最後は、ずっと舞台の一角にそれまでの小道具をおいて らえるのはうれしいです。夢みたい。行けるというだけでもうれしいけど、
いくのだけど、歴史がつみかさなるように小道具も増えていく。これも現 自分の作品をみてもらえるというのは二重の歓びですね」
実でありシンボル。20年の歴史の積み重ね。それは舞台にあるんだけど、 −今後のプロジェクトについて教えて下さい
皆踊りに夢中でみえていないかも。最後そこにマントンを重ねるの。積み 「舞踊団では未定です。来年の3月まではツアーが決まっているけれど、
重ねで、終わるわけです」 その先は今はわかりません。でもそのあとはたぶん、また監督が公募さ
−日本についてです。何度も来日してらっしゃいますよね。 れるんじゃないでしょうか。なのでそのあとは自分の舞踊団かもしれませ
「日本に行きたくてしょうがないの。息子のマヌエルが生まれてから行っ んね。今ふたつの作品のプロジェクトがあるんです。まだ何も言えないけ
ていないの。もう10年にもなるから、日本の禁断症状が出てるんです。 れど、いろいろ考えています」
20年前にタブラオで6 ヶ月いたこともあるしね」 −ラファエラらしいフラメンコ、期待しています。
−90年代ですよね。日本の印象はいかがですか。 「これまでにあったフラメンコは泉のようなもので、そこからそれぞれが違
「以前は毎年、年によっては2回も3回も行くことがあったの。あの時代は う提案をして、それぞれ違う世界を提示する。いろんな世界がある。観
クラスに来る人もすごくやる気があって一生懸命だったし。今はどうかわ 客にとってそれは素晴らしいことですよね。いろんな違うものをたのしむ
からないけど、今はたくさんの人が行っているでしょ。それに日本からも ことができるのですから。どんな見方もOK。一つのことに対して、いろ
沢山の人がスペインに来る。あの頃とはいろいろ変わったんじゃないかし んな世界が、いろんな視点がある、いろんな意見があるのはいいことだ
ら。でも本当にあの頃私たちは熱かった。文化の違もいろいろ興味深かっ と思うんです。絵画でもそうでしょ、技術は一緒でも表現は違う」
た。今は前よりアメリカナイズされてるみたいだけど、エッセンス、エネ 広い視野をもって洗練された情熱を届け続けるラファエラ。今後の彼女
ルギー、日本は本来のポテンシャルが強いと思うの。神秘的でエネルギッ にも期待したい。
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Una produccion del Instituto Andaluz del Flamenco